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暗闇のカオルと
閉ざされた記憶
第一章 宿敵 1
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痛いほど激しく吹きつける雨粒が、街灯の無機質な光を受けて、夜の闇に青白く浮かび上がる。
その雨に打たれ続ける少年がいる。十二歳ぐらいだろうか。風雨を一切感じていないのか、強く握った
拳を構えたまま、少しも動かずに虚空を厳しく見つめている。恐ろしい何かに、追いつめられたような目だ。
荒い呼吸と
激しい心臓の鼓動が、極限に達した緊張を表している。
突然、夜空がまぶしく光り、荒れ狂う紫電が
轟音と
ともに前方の立ち木を直撃した。
夜を真昼に変えてしまいそうな
閃光で、
影絵のようになった少年の視界を、大気を引き裂き鼓膜を突き抜けた轟音が長いことゆるがし続ける。
だが少年は、険しい顔のまま一歩も動かない。見すえるものに集中しきっているのか、雷光にも雷鳴にも一切動じていない。
少年の顔がさらに険しくなった。
直後、素早く踏み込んだ少年は、全身を使って右の拳を勢いよく放ち、雨粒を消し飛ばして虚空を貫くと、続けて左の拳も撃ち放った。
が、どちらの拳も手応えないまま空中で動きを止める。
すると、瞬時にあせりを浮かべた少年は、何かをかわすように素早くのけぞり、そのまま体を深く沈めると、全身で伸び上がるように拳
を上空に振り上げた。
流れるような動きで、守りから攻めに転じた見事な一撃。
しかし、何事も起こらない。
少年の荒い呼吸の音が、雨音に混じるようになった他は、何の変化もない。
少年はゆっくりと構え直した。そして、ふたたび厳しい視線で虚空を見つめる。だが、その視線の先には文字通り何もない。街灯の光に浮かび上がる雨粒の
カー
テンがあるだけだ。
人気のない夜の公園。
この場所で少年は、先ほどの戦うような動きを一人でずっと続けていた。何十分も前から。それは、昨日も、一昨日も、そのまた前の日も行っていた。怨霊。
妖怪。化け物。あるいはまったく別の存在。いったい何と戦っているのか、はた目ではわからない。
少しして、少年はふたたび拳を振り始めた。だがやはり、周囲には何者も存在しない。それでも、少年は厳しい表情で拳を振り続ける。そして、ひときわ激し
く拳を振った時だった。首もとで何かが銀の輝きを放った。激しい動きのために服の中から飛び出したそれは、銀のチェーンのネックレスだ。先端は銀の指輪に
通され、街灯の光りと雨粒を受けてきらきらと輝いている。
その銀の指輪。それは少年にとって、とても大切なものだ。それこそ、命と同じぐらいに大切なものだ。いつも肌身離さず身につけている。母親の形見だから
だ。
大好きだった母親の死を父親から聞いたのは、少年が小学校に入学した直後だった。
全てを忘れ去るためか、父親がすぐに引こしを決めたので、とても親しい友達とつらい別れをした少年は、父親との二人暮しで深い悲しみに暮れていた。
そんな少年に、父親は銀の指輪を渡しながら言った。
「これは母さんの思い出がたくさんつまった指輪だよ。これを母さんだと思って大事にしなさい。そうすれば、いつかきっと母さんに会えるから……」
父親は指輪に銀のチェーンのネックレスを通して少年の首にかけた。少年は父親の言ったことを心から信じ、いつか母親に会えることを願って指輪を大切にし
た。しかし、少年を待っていたのは、大好きだった母親との再会などではなく、新しい学校でのつらいいじめだった。
落ち込んでいて大人しかったためか、母親がいなかったためか、はたまた性格に問題があったのか、少年に理由はわからなかったが、いじめは少しずつ激しく
なり、ついには学級の誰も少年と関わろうとはしなくなった。
教師も、そんな少年を助けることは一度もなかった。少年一人がつらい思いをすることで、手の付けられない子供たちが満足するのを良しとしたのだ。思うに
少年は
生贄だったのだろう、学級とい
う共同体が平和を保つための。
誰一人仲間がいない中、少年は言い返すこともなく、やり返すこともなく、ただじっと無抵抗でたえ続けた。その間、少年の心が屈することはなく、最後の意
地なのか、決して涙を見せることもなかった。
ふたたび雷光が夜空を走り、雷鳴がとどろいた。
超重量の物体が地面に激突するような轟音が、空気を殴りつけ激しく震わせる。
その轟音を叩きつけられながら、少年はつらかった小学校時代のことを思い出し、胸がしめつけられる感じがした。
なぜ、あんなにつらかったんだ?
少年は自問自答する。だが、考えるまでもなく答えは出ていた。
あんなにもつらかったのは、いじめられたからだ。もし、いじめを受けていなければ、もし、いじめを跳ね返していれば、あんなにつらい思いはしなかった。
中学では同じ過ちは犯さない。無抵抗のままではいないで、抵抗してやる。言われたら言い返し、やられたらやり返す。何が何でも抵抗して、中学でも続くだ
ろういじめの連鎖を絶対に断ち切ってみせる。そうだよ、降りかかる火の粉は自分の手で払わなきゃいけないんだ。そうしないと、悪意の炎で焼き尽くされて苦
しみ続けるんだ。だから、こうして戦う訓練をするんだ。
少年は奥歯をかみしめ、表情を引きしめた。
そして、心に相手の姿を想い浮かべると、実際には見えないにその相手に向かって一心不乱に拳を振り続け、見えない相手からの攻撃をかわし続けた。
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