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暗闇のカオルと
閉ざされた記憶
第一章 宿敵 4
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カオルは未だに激しい興奮状態だった。心の動揺を他人に気づかれたくないため、手足が震えそうになるのを必死にこらえる。気を抜けば足がもつれて転びそ
うだ。
だが、その興奮は鮫口と胸倉をつかみ合った時の、恐怖と緊張が入り混じったものから、別のものに少しずつ変わっていた。
──喜びだ。
いじめに抵抗できた喜びによる興奮であり、カオルにとって最も恐ろしい存在である鮫口に、立ち向かうことができた喜びによる興奮だ。
そんな恐怖と緊張と喜びを混ぜ合わせた複雑な興奮を感じながら、教室を出て廊下を歩き出した時だった。
「谷風君」
突然の呼び止めに驚きまくったカオルは、反射的に振り返った。
そこには、セーラー服のよく似合う、二人の可愛い女の子がいた。カオルの知らない子たちだ。その子たちもカオルの反応に少し驚いたようで、きれいな目を
大きく見開いていた。
「ごめんね、おどかしちゃったかな? はい、これ。谷風君のでしょ」
肩にかかるぐらいのセミロングで明るい印象の子が、小鈴が鳴るような軽やかな声で言って、金ボタンを乗せた手の平をカオルの前に差し出した。
初対面な上、とても可愛い子だったので、またしても激しく緊張したカオルだが、内心の動揺に気づかれないように、落ち着いて自分の胸からお腹の辺りを確
認した。しかし、ボタンが無くなっている個所は見当たらない。
「お、おれのじゃないみたい」
カオルは緊張をかくしつつ、かわいたのどでなんとか普通に声を出した。しかし、女の子たちはまたも少し驚いたような表情をすると、二人で顔を見合わせ
て、くすくすと優しげに笑った。
眼鏡の似合うお下げの子が、カオルの首の下辺りを指差した。
「一番上、第一ボタン」
セミロングの子とは対照的な落ち着いた声だった。
カオルは指差されたところに手を当てた。確かにボタンが無くなっている。鮫口とつかみ合った時に取れたのだろうか。見え難い部分だった上、緊張していた
ので見落としたようだ。
「ほ、ほんとだ。ありがとう」
カオルはセミロングの子の手の平から、金ボタンを受け取った。彼女の手の平は、ほんのりと暖かく、つややかだった。
「どういたしまして。それにしても、さっきは驚いたよ。いきなりけんか始めるんだもん」
「ご、ごめん……」
「谷風君は悪くないよ! 絶対向こうが悪いよ! わたし、始めから見てたからわかるよ。最初につっかかってきたのは向こうだったよ。あの人たち、来てから
ずっとさわいでて、何だがすごく感じ悪かったしね。それにしても、谷風君はさっきとは感じが全然違うね。なんだか、別人みたい。さっきは何ていうか……そ
う! 正義のヒーローみたいな感じだった! 悪い人たちを──」
「さわちゃん、立ち話もいいけど、まわりをよく見て」
悪との戦いに生き残った正義のヒーローを、ノックダウンしそうな勢いで話し始めたセミロングの子を、お下げの子が冷静に止めた。
セミロングの子がまわりを見渡す。つられてカオルもまわりを見る。すると、カオルたちの周囲には生徒の姿は無く、すでに廊下の先の方を歩いている。
「あー、みんな先に行っちゃってる! わたしたちも歩きながら話そうか。って、あれ? れいちゃん、わたし、何の話してたんだっけ? えーと……」
「教室の後ろに集まってた男子の話」
「そうそう、それそれ。あの人たちが下品にさわいでたから、教室の空気がすごく悪くてね……同じように思ってた人、きっとたくさんいるよぉ。そこに──」
セミロングの子──水沢さやかの会話は明るく軽快で、緊張の連続でこり固まっていたカオルの心を優しく解きほぐす。放っておくと、ちょうを追う子猫のご
とく、あらぬ方向へ話がそれてしまうのが玉に傷だが、そのたびに、お下げの子──緑川玲子が方向修正を行う。カオルの会話はどことなくぎこちない感じでは
あったが、水沢と緑川は何も気にすることなく、ごく自然な態度で接してくれた。
カオルにはそんな二人との会話がとても楽しく感じられた。六年間いじめらてきて友達のいなかったカオルにとって、それは格別の楽しさだった。
その後の一日は、朝のさわぎがうそのように、おだやかに過ぎた。
全校朝礼の時も、学級活動の時も、鮫口たちはまるでカオルのことが見えていないふうに振舞った。カオルをいじめることにあきたのか、抵抗されて嫌になっ
たのか、女の子たちと一緒にいるので手を出しづらいのか、とにかく、鮫口たちはカオルに一切近づかなかった。
カオルは、今までいじめられてたのが幻のようにさえ思った。
夜、カオルは自室で今日の出来事を思い出していた。
その時の光景が、その時の感情をともなって鮮明によみがえり、自然に体が反応する。
朝の桜並木で、いじめに立ち向かうと誓った時の勇気で胸を張り、黒屋に冷やかされた時の緊張で心臓が高鳴り、鮫口のおどしを受けた時の恐怖で体が震え、
鮫
口と胸倉をつかみ合った時の興奮で拳を握りしめ、そして、女の子たちと会話した時の楽しさで笑顔がこぼれた。
カオルは母の形見の指輪を握りしめながら、それらの感情に身をまかせた。
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