トップへ>目
次へ>このページ
暗闇のカオルと
閉ざされた記憶
第一章 宿敵 10
前のページへ 目次に戻る 次のページへ
うす暗い体育館裏。
しめった風が分厚い雲を呼び、さらに暗くなっていた。
カオルは何が起きたかわからなかった。
暗闇の中で、鼻の奥を突く土のにおいと、口の中に広る血の味を感じながら、体中の激痛にうめきをもらすことしかできない。
全身ぼろぼろのカオルの動きでは、けんか慣れした鮫口には通じず、痛烈な反撃を受けたのだ。
その鮫口は地面に倒れたカオルを見下ろしていた。顔には一つの傷もない。
鮫口は、振り上げていたひざと、打ち下ろしていた拳をゆっくりと戻した。それから、にやりと笑みを浮かべると、自分が与えた打撃の手ごたえを確認するか
のように、手の平を何度か握り直した。そして、カオルに動く気配がないと見て取ったのか、仲間が満足そうな顔で見ているもとへ歩き出した。
黒屋たちは、鮫口が戻ってくるのをにやけ顔で迎えた。それから、何か話をしようと思ったのか口を開く。だが、その口は、言葉を発することなくそのまま固
まると、顔の表情が激変した。
とっさに鮫口は振り返った。
すぐに、鮫口の表情も激変する。
鮫口の驚きのひとみ。そこに映っているのは、震える足で何とか立ち上がろうとするカオルの姿だった。
苦しそうに胸と腹を抱え、細かく震えるカオルは、まともに動けるようには到底見えない。くちびるのはしからは血が流ている。だが、カオルのひとみは鋭い
光りを失わず、ただ鮫口だけをとらえている。
カオルはぼろぼろの体でなんとか立ち上がった。それから、すぐに拳を握り直すと、鮫口に向けて放った。
ゆっくりと突き出されたカオルの拳を、鮫口は一歩後ろに引くだけで簡単によけた。
だが、カオルはさらに拳を放つ。
当たっても痛みさえ与えられないような弱々しい拳。それを鮫口は腕で払い退けると、同時にカオルの腹にひざを打ち込んだ。すると、さほど力も入ってない
ひざ蹴りに、カオルは簡単に崩れ落ちた。
しかし、カオルは震えながらも顔を上げる。そして、炎を宿すようなひとみで鮫口を見すえ、ふたたび立ち上がろうとする。
震える手を地面に突いて片ひざを立て、そのひざをかくかくと震わせながら体を持ち上げる。再度倒れそうになると、立てたひざに両手を置いて支え、全身を
駆けめぐる痛みにたえる。それから、さらに体を持ち上げると、カオルはなんとか立ち上がった。そして、鮫口を強烈ににらみつける。力いっぱいかみしめた歯
は
血でうっすらと赤く染まり、新品だった学生服はどろと砂利で汚れている。
そんなカオルを見た鮫口は、面倒くさそうにチッと舌打ちをしてから、黒屋に言った。
「黒屋、ナイフかせ」
まわりの男子の表情は凍りついたが、黒屋だけは下品な笑みを浮かべた。
「ああ」
黒屋は返事をすると、学生服の内ポケットに右手を忍ばせて鮫口のところへ歩いていき、取り出したものを渡す。口のはしをつり上げた鮫口は、受け取ったオ
レンジ色の物体をお手玉するように左右の手でもてあそんだ。
鮫口がもてあそぶもの。それは、工作用のカッターナイフだった。
黒屋たちのやりとりを見て険しい顔になる男子たち。その横で、平前がためらいがちに言った。
「りゅ、龍ちゃん、さすがにカッターはまずくない?」
「沙織はだまってろ」
鮫口は、一切感情のこもってない言葉で平前をだまらせた。それから、カッターナイフに目をうばわれていたカオルの胸倉を、左手でねじり上げた。
「うぐっ」
カオルは苦しげな息をもらした。だが、しめ上げる鮫口の太い腕を両手でつかみ返し、にらみの視線を鮫口に戻す。
鮫口はカッターナイフをカオルの眼前にゆっくりと持っていき、カチリと刃を出した。
カオルの目の十センチほど前で、カッターの刃が銀色の光沢を見せる。研がれた刃の角度までカオルの目に鮮明に映り込んだ。
「しつけぇーんだよ」
鮫口はおどしの効いた低い声で言うと、カオルの目へ向かってカチリと刃を伸ばした。
伸ばされた刃がひとみにぐさりと突き刺さる感覚に、カオルの体は硬直する。
カチリ、カチリと、鮫口はさらに刃を伸ばす。刃とひとみの距離が一センチ、また一センチと縮まり、そのたびに、カオルは目の奥に鋭い痛みを感じた。
あと一段伸ばせばひとみにふれる位置まで刃が伸ばされた。
背筋にゾクゾクと寒気が走ったカオルは、たまらずに頭を後ろへ引こうとした。だが、胸倉をつかまれているため、ほんの少しの距離しか引けない。
その開いた少しの距離をカッターナイフの刃がさらにつめた。すると、目の奥がづきりとひときわ強く痛んだ。
「まさかてめぇ、勝てるとか思ってるのか?」
カッターナイフの刃がカオルの眉間へゆっくりと移動する。そして、そのまま止まることなく移動した刃先が、かすかに眉間にふれた。瞬間、電流を放ったよ
うな痛みが眉間から全身に駆けめぐる。
「ふっ……てめぇじゃ無理に決まってんだろ」
鮫口はカッターナイフの向きをゆっくりと変え、刃の腹をカオルの目の下にふれさせた。冷たいはずの鉄の刃が、焼けついた鉄のように感じられた。
「ザコはねばっても、所せんザコなんだよ」
言って、刃の腹をカオルの肌から少し離し、直後、ペシリと軽く打ちつけた。
ほんのわずかのはずの衝撃が、強烈な振動となってカオルの全身を駆け抜けた。
それから鮫口は、険しい顔にさらなる憎しみを込め、カッターナイフを持つ右手をゆっくりと振り上げた。
「女にチヤホヤされたからって、調子こきやがって……二度と相手にされねぇ顔にしてやるよ!」
そう怒鳴るや、カオルの顔面めがけ、力いっぱいカッターナイフを振り下ろす。
全身の毛穴から汗が吹き出す感覚が走ったカオルは、とっさにかわそうとした。だが、鮫口につかまれた胸倉は振り解けず、受け止めようと出した手も、勢
いのついた剛腕に押し返された。そして、大きな軌道で叩きつけるように振り下ろされた刃は、縮み上がったカオルの顔面へ烈風を生じながら迫り来ると、その
眼前で停止した。
動きの止まった二人の間に、カオルの心臓が大きな鼓動を響かせる。
引きつるような痛みを胃に感じたカオルは、つかまれていた胸倉を離されたとたん、地面にひざを着いた。地面の冷たさが震えるひざから伝わってくる。
そんなカオルを、鮫口はいやらしい笑みを浮かべて見下ろしている。
……ち、ちくしょう……
カオルは悔しがった。しかし、それでも抵抗するために立ち上がろうと足に力を入れる。
が、足に力が入らない。
カオルは変に思ったものの、もう一度立ち上がろうと試みる。
だがやはり、足に力が入らない。まるで足が丸太にでもなったかのごとく、一切力が入らない。それどころか、手も体も全く動かず、意志とは関係なく細かく
震え続けるだけだ。
動け、動けよ、頼むから動いてくれよ!
カオルは心の中で激しく叫ぶ。しかし、その叫びは、空っぽになった心の中で、むなしくこだましただけだ。
今やり返さなきゃ、またいじめられる。今度はさわちゃんや、れいちゃんの前で。そんなの絶対に、絶対に嫌なんだ……だから、やり返さなくちゃならないん
だ……だから……だから、動いてくれよ……
カオルはさらに必死に、自分の足を動かそうとした。
けれど、やはり足は動かない。カオルの意志にまったく反応せず、うんともすんとも言わない。
カオルの足が動かない理由。
そう、それは、立ち向かう勇気がなくなったからだ。
今のカオルの心には、鮫口に立ち向かおうとする勇気が、ひとかけらも残っていないからだ。先ほどまで満ちていた勇気は、カッターナイフのおどしで完全に
消
え失せてしまったのだ。
カオルの視界がわずかににじんだ。そのにじみは次第に大きくなり、暖かい何かがほおを伝って地面に落ちた。
──涙だ。
それは、カオルが流す涙だ。
今までいじめでは心は屈せず、カオルは一度も泣いたことが無かった。
そのカオルが見せる初めての涙だった。
いじめに立ち向かう決心がくじかれ、あれほど心を満たしていた勇気が無くなってしまったと自覚した今この時、長い間ためていた全てのものが流れ出るかの
ように、目から涙が止めどなく流れ出る。
両ひざを突いて涙を流すカオルの前へ、黒屋が歩み出て来た。
「泣き入れれば済むとでも思ってんのかァ、こらあァ!」
黒屋は怒鳴りながら拳を放った。
その拳は、無反応のカオルのほおを難無くとらえた。
鈍い音と激しい痛みが生じ、カオルは横によろけて両手を突いた。すると、黒屋はさらにカオルの腹を蹴り上げた。腹を突き抜けた痛みに、胃が瞬時に縮こ
まった。
「さっきの不意打ちの借りは、十倍で返してやるよ。おらあァ!」
怒りと喜びの混じった表情の黒屋は、ぼろぼろの砂袋同然のカオルを思うがままに殴り、蹴り、ののしった。
動くことさえままならない体の上、気持ちまで完全に途切れたカオルは、全身の痛みと心の苦しみの中で意識がうすれていった。
真っ黒な雲におおわれた暗い空の下、いやらしい笑みを浮かべて取り囲む数名の男子と一人の女子。笑い声がこだまする中、その影がぼやけ遠ざかっていく。
そんな光景がかすれていくのをながめながら、カオルは意識を完全に失った。
前のページへ 目次に戻る 次のページへ
トップへ>目次へ>このページ