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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第二章 悪夢 1

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「カオル君、ごめんなさいね。彩華、今日はお寝坊しちゃって」
 高嶺幸子は聖母を思わせる優しい笑顔でうそを吐いた。
 一緒に登校するために高嶺彩華の家を訪ねたカオルは、彩華の母である幸子の笑顔に見とれ、玄関に立ち尽くしている。うそには気づいていない。
 彩華は今日に限らずお寝坊ばかりしているので、「今日は」ではなく「今日も」が正しい。しかし、幸子本人にだまそうという意思はない。人を悪く言うこと がない人なのだ。なので、幸子のほめ言葉ほど当てにならないものはない。
「カオル君はブレザーがよく似合うわねぇ」
 灰色のブレザーとズボンに紅色のネクタイという服装に、肩かけかばん。ごく普通の高校生の格好をしたカオルは、うれしそうにほほ笑んだ。言葉通りの意 味で受け取ったのだ。
 三人の娘がいるとは思えないほど若々しい幸子は、エプロンをひるがえして後ろを向くと、台所に向かっておっとりとした声で呼びかけた。
「あやかぁーまだなのぉー遅刻しちゃうわよぉー」
「ちょっと待ってー、今行くー」
 高原のさわやかな空気のような、透き通った美しい声が返って来た。高嶺彩華である。カオルと同い年で同じ高校に通うかけがえの無い友人だ。
 パタパタとスリッパで駆けてくる音とともに、スカートをはためかせて彩華が姿を現した。
 美術室の石こう像のように均整のとれた体型で、灰色チェック柄のプリーツスカートと、こん色のブレザーをりりしいまでに美しく着こなしている。手に下げ た 通学用の黒い革かばんは、ごくありふれたものだが、彩華が持ったとたんに至高の芸術品と化す。
「んんんー」
「は?」
 いきなりくぐもった声をかけられたカオルは、すっとんきょうに驚くと、あいさつも忘れて彩華の顔をまじまじと見た。
 背中まであるつややかな黒髪のポニーテールに、神による造型と言えるほどに整った顔立ちの彩華は、意志の強そうなひとみでカオルを見ている。そこまで は、いつも通りの超絶美少女だ。が、問題は口もとにあった。
「彩華、お行儀悪いわよ」
「んんんーん」
 ほめてるとしか思えない幸子の優しいおとがめに、彩華は意味のわからない言葉で答えた。
 しかし、それも仕方の無いことだ。いくら器用な彩華とはいえ、食パンをくわえたままでは会話ができない。
「忘れ物はないの?」
「んん。んんーんんんん、んっんん、んんん、んんんん」
「そう、なら大丈夫ね」
「んんんん、んんんんっんん」
「そうよね、カオル君もいることだし」
 驚いたことに、二人の間では会話ができているようだ。親子のきずなは偉大である。が、他人であるカオルには全く意味が通じない。しかし、彩華は容赦なく カ オルに話しかける。
「んっん」
 あざやかな紅色のネクタイを見せつけるように、彩華は形の良い胸を張りながら、右手で何かをカオルの目の前に突き出した。
 近すぎたので、カオルは頭を後ろに引いて確認した。ストローの刺さった牛乳パックだった。
 えっ? 「飲んで」って言ってるのか?
 意味がわからず思案しているカオルに、彩華はさらに牛乳パックを突き出した。
「んっん」
「えっと、おれ、朝ご飯食べてきたから、いらな──」
「んっん!」
 断ろうとするカオルに、彩華は有無を言わさず牛乳パックを押しつけた。
 カオルは仕方なく受け取ると、牛乳が三分の一ほど残っているのを確認した。
 彩華め、飲み切れないからって、おれに押しつけやがったな。幸子さん、あまり彩華を甘やかしてはいけないと思います。
 などとカオルが思っている間に、彩華はトラ猫をかたどったスリッパをぬぎ捨てると、黒いくつ下をはいたしなやかな足を、黒の革ぐつに突っ込みながら玄関 を駆け抜ける。
「んっんんんーん」
「はい、いってらっしゃーい」
「おい、彩華! 待て! やめろ!」
 食パンをくわえた彩華は、静止を呼びかけるカオルにはわき目もふらず、ドアを大きく開け放つと、勢いよく外へ飛び出した。
「カオル君、彩華のことお願いね」
 カオルは相当取り乱していたのだろうか、到底聞き入れられない幸子のお願いに、はい、と元気いっぱいの返事を残し、彩華のあとを追いかけた。

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