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暗闇のカオルと
閉ざされた記憶
第二章 悪夢 7
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「お礼参りのつもりか」
変形学生服をだらしなく着た鮫口が険しい表情で言った。
配管が縦や横に走った校舎の側壁には、エアコンの室外機がいくつも設置されており、等間隔に並ぶ植木には葉がまばらに付いている。
日差しも人目もさえぎられた校舎裏の空間はとてもうす暗い。
「なめやがって……」
五メートルほど前方にいる鮫口は、ズボンのポケットから手を出して身構えた。
カオルは、極限まで高まった緊張で、心臓が激しく鼓動するのに構わず鮫口に近づいた。すると、鮫口の体のわずかな動きから、細かい顔の表情にいたるまで
はっきりと見えてくる。
鋭い目付きでにらむ鮫口は、
眉間に刻
まれたしわが深まり、手足の筋肉がぴくりと動いた。直後、無理のない動作で素早く踏み込んだ鮫口が右の拳を放った。
顔面に向かってくるその拳を、カオルがじっくりと見つめながら横へ移動すると、鮫口の拳は風切り音を立てながら顔の横を通過した。
「てめぇ……」
鮫口は、振り切った拳を素早く引き戻すと、拳をかわされて相当悔しかったのか、激しい怒りをあらわにした。
その表情を見たとたん、過去の鮫口の姿が浮かび上がった。その鮫口は、憎しみをふくんだ険しい表情をしており、手にはカッターナイフを持っていた。
直後、極限を超えた緊張でカオルに悪寒が走り、全身が小刻みに震えだした。
すると、急に視界が色あせて、世界がセピア色となった。
「ああぁ、ラリッてんのか?」
くちびるの動きははっきりとわかるのに、なぜか聞き取りにくい鮫口の言葉に対し、腰を落し拳を引いて身構えた。
「上等だァ!」
叫んだ鮫口は、のっそりと踏み込むと、かわして反撃してくれと言わんばかりの、ゆっくりとした速度で拳を打ち込んできた。
カオルは、鮫口の視線と体の動きからねらいは左ほおだと予測し、攻撃をかわしながら、がら空きのふところへ入り込もうとする。
──えっ!
突然の体の異変に驚いた。
なぜか体が思うように動かない。
いや違う。正確に言うと、自分の意志で動かせるのだが、動く速さが遅すぎるのだ。
しかし、幸いにも鮫口の攻撃も遅い。これならかわしきれると判断したカオルは、ねらい通りふところへ入り込むため、体をかがめながら前進する。すると、
頭の上を鮫口の拳がゆっくりと通過し、無防備な鮫口の腹が眼前に迫ってきた。
いけえぇェ!
カオルは頭から鮫口の腹に突っ込んだ。
ゆっくりとした衝突からは想像できない強烈な衝撃が、頭から背中に突き抜ける。
けれど、カオルはそれを気にとめず、ぐにゅっとめり込んでいく感触に合わせ、コンクリートの地面を両足で踏ん張りさらなる力を加えた。すると、鮫口は体
がくの字に曲がって足が地面を離れると、カオルを腹に抱えたまま、ゆっくりと背中から後ろへ倒れる。
着地の衝撃がセピア色の視界を激しくゆさぶった。
しかし、いち早く回復したカオルは、思い通りにならない遅い動きで地面に手を突くと、頭を上げて鮫口を見た。すると鮫口は、苦しさのせいか異様なほど
顔をしかめ、腹を抱えて地面に転がっていた。
思いもよらない光景に、カオルはひざ立ちのまま動きを止めた。
だが、自分のしたことに驚いている余裕はなかった。いきなり横に黒屋の姿が浮かび上がったからだ。
その険しい顔の黒屋はすでにカオルへ踏み込んでおり、あせって振り向いたカオルへ、のっそりとした動作で拳を打ち出していた。
ひざ立ちのカオルは、かがむしかよけるすべが無いと瞬時に判断し、ゆっくりと身をかがめる。しかし、カオルがかがむ方向へ、鬼の形相の鮫口が転がった姿
勢のまま
蹴りを放ってきた。
動きの不自由なカオルへ、黒屋の拳と鮫口の蹴り足が同時に迫り来る。
かわせない!
とっさにカオルがそう思い、鋭い緊張が全身を駆けめぐった時、セピア色の視界はさらに色彩を失い黒と白だけとなった。
直後、体がいましめを解き放った。
ゴムで全身をしばられていたかのように、今まで思うように動かなかった体が、突然カオルの思う早さで動かせるようになったのだ。
カオルは考えるより先に動きだしていた。
ゆっくりと襲い来る黒屋の拳と鮫口の蹴り足を、素早く横手へ転がってかわすと、そのまま地面の上を二転し、地面に弾かれたように黒屋に飛びかかっ
た。
黒屋が振り切った拳を引き戻すこともできず、驚きの目でカオルを見ているそののどに、空中からつかみかかったカオルは、勢いのまま黒屋を倒して馬乗りに
なると、黒屋の顔を滅茶苦茶に殴りだした。すると、黒屋はあっというまに意識を失い鼻と口から血が流れ出した。
すぐにカオルは、鮫口の方を見た。鮫口は、転がったまま黒屋がやられる光景に目をうばわれていた。
そのあせりを浮かべた鮫口が、起き上がろうと遅い動きで身をよじっているところへ、カオルは地をすべるように駆け寄ると、またしても馬乗りにまたがり殴
りかかった。
黒屋と違い、鮫口は両手で拳を防ごうとするものの、次元の違う速度で動くカオルには意味が無い。防御のすき間を狂ったように打ちまくると、鮫口の顔も
あっというまに赤く染まった。
そこでカオルの視界がさらに暗くなる。
視界の中に白黒で映っていたまわりの景色がどんどんうすれていくと、最後には完全に消失し、何も無い暗闇の中に白黒の鮫口だけが映るようになった。
カオルはふたたび鮫口に殴りかかった。鮫口は必死に手を動かして拳を受けようとするものの、鮫口の動きはさらに遅くなっており、カオルの拳をまったく受
けられない。ふらふらと宙をただよう鮫口の手にかまわず、カオルが顔面を乱打すると、鮫口は一発も防げないままについに気を失った。
しかし、カオルは止まらない。視界の景色とともに自制心まで失ってしまったのか、ぐったりと白目をむいた鮫口をさらに殴りまくった。そして、とどめを刺
すかのように拳を大きく振り上げると、鼻血にまみれた半開きの口をにらみながら、その横顔めがけ拳を──
「やめろおぉォーー!」
反響する馬鹿でかい悲鳴が耳をつんざき全身を駆け抜けた。
跳び上がるよう身を起こしたカオルは、荒い呼吸をしながらあわてて周囲を確認する。
だが、わずかに視界の利く程度の暗くせまい空間には、鮫口の姿も黒屋の姿もどこにもなく、窓からこぼれた月明かりが、ななめに走って床を照らしていたる
だ
けだ。
とても静かなその空間では、強く脈打つ心臓の鼓動がひときわ大きく感じられる。
カオルには見慣れたその空間は、自分の部屋であった。
電気の点いてない暗い自室にいるカオルは、激しい興奮状態でベッドの上で身を起こしていた。冷たい汗でぐっしょりぬれたパジャマが、肌にまとわり付いて
気持ち悪い。両手の拳には、人を殴った生々しい感触が未だに残っている。
カオルは拳をさすってみた。しかし、なんの異変もなく痛みもない。その代わりに、のどがひりひりとかすかに痛む。
「またか……」
カオルは深いため息を吐いた。
今見た光景を現実に見た記憶はない。
悪夢を見てうなされたあげく、自分の叫び声で目が覚めたのだ。
カオルは今まで何度となく同じ夢を見てきた。しかし、今日見た夢は今まで見た中で一番鮮明であった。
「公園で鮫口を見たからか」
遠くからとは言え、本物の鮫口を見てしまったあとなので、この夢を見ることも、それが鮮明であることもうなずける。
なぜこんな夢を何度も見るのか、カオルは自分でよくわかっていた。小学生時代にいじめられていたこと。中学の時に体育館裏に呼び出されてぼこぼこにされ
たこと。カッターナイフを使って鮫口におどされ、いじめに抵抗しよという意思をくじかれたこと。それらがカオルの心に深い傷となって残っているからだ。だ
から、夢の中で黒屋を殴り、鮫口を殴るのだ。カオルはこの夢をそのように解釈している。
この夢にたびたびうなされ、気分が滅入るカオルだが、この夢には感謝もしていた。もしこのような夢を見て心の欲求不満を解放していなければ、正気を保て
なかっただろうし、
復讐か何かをし
ていたに違いない。
夢のことを忘れるためにカオルは頭を振った。それから、ベッドから立ち上がりぬれたパジャマをぬぐと、そのまま右拳を肩の横に構えて気持ちを引きしめ
る。
「はっ!」
鋭いかけ声とともに拳を突き出した。そして、放った拳を強く握りしめた。
この夢はいつになったら、忘れられるんだ? 一生この夢を見て、おびえ続けるのか? 鮫口を倒せば乗りこえられるのか?
自分に問いかけるカオル。だが、答えは出てこない。
カオルは突き出していた拳を戻し、ふたたび構え直す。それから、緊張した面持ちでうす暗い空間をじっと見すえると、そこに人影を想像し始めた。
背が高く筋肉質な体型のその男は、拳を構え、険しい表情でカオルをにらんでいる。
突然、その影がカオルに向かって拳を放ってきた。
カオルは体を横にかたむけ拳をかわしながら、逆に相手の腹に拳を叩き込むと、痛みで背を丸めた男の横っ腹へ勢いよくひざを打ち込み、苦しそうに身をよ
じったところへ、顔面めがけ力の限りの拳を放った。
すると、鋭い音を放ちながら突き抜けた拳に、黒い影は激しくゆれて消し飛んだ。
ほっと息を吐くカオル。だが、それも束の間、すぐに構えを取り直すと、何もない空間、今度は想像による相手さえもいない空間に向かって、一心不乱に拳を
振りを始めた。
これらは、はた目にはかなり異常な行動なのだろう。だが、カオルにとっては普通のことだ。カオルは嫌な夢を見るたびに、嫌なことがあるたびに、無心に拳
を振って気持ちを落ち着かせる。これはもう習慣となっているのだ。
このけんかの練習のようなことを、カオルは誰にも見せることなく、かくれてくり返してきた。いじめられていた過去を誰にも知られたくないからだ。別に復
讐しようなどとは考えていない。ただ、拳を振っていないと、恐怖と屈辱で心が押しつぶされそうで、どうしようもないのだ。
カオルは拳を振るのを止め構えを整えた。それから緊張を高め、空間にふたたび人影を思い浮かべる。そして、今度はその影に向かって拳を振り続ける。疲労
で腕が上がらなくなるまで、いつまでも、いつまでも。
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