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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第四章 紛失 2

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 なまめかしい手つきで、景子はカオルのほおにバンソウコウをはりながら耳もとで問いかける。
「谷風君、突然だけどゾーンって聞いたことあるかしら?」
「ゾーンですか? 区域とか範囲とか、そういう意味の英語ですよね?」
「ええ、その通りよ。他に思い当たることはない?」
 景子の手当ての仕方に気持ちが高ぶりそうになるカオルだが、言われるがままに思い当たることを考える。しかし、特に何も思いつかない。
 景子はカオルの表情をじっくりと観察しながら、はり終えたバンソウコウを上から優しくなでた。意識が集まり過敏になったほおに、くすぐったさとかすかな 痛さを感じたカオルは、体をわずかに震わせ、あっ、と小さな声をもらしてしまった。
「そう、何も思い当たらないのね。なら、究極の集中力は知ってるかしら?」
「究極の、あっ、集中力ですか? 聞いたこと、あ、ありません。普通の集中力と、何か違うん、あっ……ですか?」
 カオルのほおからその首筋へ、景子は肌をさすりつつ手を移動させ、言葉を吹きかける。
「明確な違いはないわ。ただ、集中力の高さが格段に違うだけよ。だけどね、集中力を極限まで高めると世界の見え方は明確に変わるわ」
「見え方が、あっ、……変わる?」
 表情の変化を楽しむように、カオルの首筋から胸もとへ肌をなでた景子は、カオルのブレザーのボタンを上から順番に外しだす。景子の言葉の魔力のためか、 体 の魅力のためか、カオルは抵抗できずになされるがままだ。
「そう、見え方が変わるの。あらゆるものの動きがゆっくりになって、まるでスローモーションで世界を見ているようになるそうよ。そういう状態をゾーンと か、究極の集中力とか呼ぶの。谷風君、あなたは自分のことで何か心当たりがあるわね」
「!」
 カオルは図星を突かれて驚いた。ものの動きが少しゆっくりに見えることがたまにあるのだ。さっきのけんかの時は、それがさらにゆっくりに見えた。だが、 けんかのことを知られるわけにはいかない。正志に迷惑がかかる。ここは何も知らないふりをして通した方が良いとカオルは考えた。
 そんなカオルの顔を色気のある笑みを浮かべて見ていた景子は、ブレザーのボタンを外し終えると、片手をブレザーの中へゆっくりと忍ばせ、もう一方の手で 制服のネクタイをゆるめ始めた。
「せ、先生、何を──」
「景子先生でしょ。言い直しなさい」
 景子は、いたずらっぽい口調で言いながらカオルのとなりにすわると、カオルのふところに忍ばせた手を胸の下に押し当てた。同時に体を密着させたため、景 子のとてもふくよかな胸もカオルの肩に押し付けられた。
「うっ、景子先生、何をする、あっ、つもりですか……」
「大切なお仕事よ。だからそんなに緊張しないで、感じたままを言葉にしなさい」
「えっ、大切な仕事? いつぅ、ほ、ほんとですか?」
「本当よ。養護教諭としての、とても大切なお仕事なの。だから、感じたままを言っていいのよ」
「うっ……す、少し、痛いです」
「あら、それだけ? ふふ、ならここはどうしら?」
「あっ、そこは……く、くすぐったい……です」
 もてあそぶようにカオルの上半身を強く刺激しては反応を見る。景子はそんな大切なお仕事を続けながら、ふたたびゾーンの話を切り出した。
「ゾーンが普通の集中力と少し違う点は他にもあるわ。ただ集中しただけでは、簡単にゾーンには入れないってことがそうね」
 景子はカオルの胸を強く押した。カオルは、うっ、とうめきをもらした。
「というよりも普通の人は、まずゾーンには入れないわ。生命の危機のような特別な場合に限って、まれにゾーンに入ることがあるそうよ。谷風君はこれにも心 当たりがあるわね」
「!」
 カオルはまたしても図星を突かれた。ものの動きがゆっくりに見える時、必ずではないが、身に危険が迫っていることが多い。だがなぜ、景子はカオルのこと をそこまで知っているのか。景子はカオルの胸をまさぐることで、胸の内までまさぐっているのだろうか。
「でもね、命に危険があるような場合以外でもゾーンに入ることはできるの。そのためには厳しい練習が必要だけど。超一流のスポーツ選手なんかは、重要な場 面ではゾーンに入れるそうよ。谷風君、これに心当たりは……」
 この質問を聞いてカオルは少し安心した。景子はカオルのことを知っていたのでも、人の心を読めるのでもなく、適当に言い当てていただけだと思い安心した のだ。
 カオルはスポーツの厳しい練習をしたことなどない。カオルは中学で部活をやっていなかったので、カオルがした運動と言えば、体育の授業か彩華の寝坊に付 き合わされた毎朝のダッシュぐらいだろうか。その他には、不定期ではあるが、嫌な記憶を思い出した時にする、けんかのイメージトレーニングのような訓練ぐ らいか。
 ──まさか? これか!
「そう、あるのね」
 カオルは反射的に景子の顔を見た。冷静にカオルを観察している目と、確信を得たような笑みを見せる口もとが、大人の色気に満ちた顔に知性というアクセン トをそえていた。
 暗い藤色の長い髪から、理性を狂わせる甘い香りがただよってくる。
「何の競技なの? どんな練習をしてるの?」
 いじめられていたことを人に知られたくないカオルは、いじめに立ち向かうイメージトレーニングを、体が動かなくなるまで無心でやるなどとは言えず、だまっ てしまう。
「かくす必要はないのよ。谷風君がゾーンに入れることはもうわかってるから。……さっき、わたしがバンソウコウ落としたでしょ? あれ、実はね──わざと なの」
 驚くカオルの顔をうれしそうに見つめてから、景子は話を再開した。
「谷風君がゾーンに入れるか試したのよ。冷静に考えてみて。空中に散らばった十枚のバンソウコウを、一枚ずつ空中でつかみ取るなんて芸当、普通の人がとっ さにできるかしら? まず無理ね。それこそ、ゾーンに入った人でなければ無理なのよ」
「ち、違う、あれは──」
「違わないわ。谷風君がゾーンに入れることは目の前で確認したわ。まあ、あんなことするまでもなく、話を聞くだけで結果的にはわかったけど。谷風君は顔に 出やすいから」
 今まで景子の取ってきた言動がカオルの頭に浮んだ。やたらと思わせぶりな態度と、ゾーンについての会話。
「……なるほど、そういうことですか。大切なお仕事とか言ってたのは、色気を使ってゾーンとやらの話を聞き出すことだったんですね」
「あら、それは違うわ。ちゃんと養護教諭の仕事をしてたわよ。谷風君が骨折してないか、内臓に異常はないか、って調べてたの、触診でね。何か誤解させたか しら?」
 景子が意地の悪い笑みを浮かべたのを見て、カオルは顔を赤くした。
 それから景子は意味深げな顔をして言った。
「谷風君はだいぶ痛めつけられたようだから、必要なお仕事でしょ?」
「えっ? ……何でそれを……まさか──」
「ご名答。ご推察の通り、谷風君がけんかしてるところを見たのよ。あの時、谷風君の動きを見て、すぐにゾーンのことを思い出したわ。谷風君が相手の攻撃を かわした動き。あれは格闘技経験者の洗練された動きではないし、素人が偶然にした動きでもないわ。ゾーンに入った人間が、相手の攻撃をゆっくりに見ながら とっさにかわした動きだって、そう思ったわ」
「見てたんですか……」
「知らないふりしてて悪かったわね。それから勘違いしないでね。わたしが行った時には谷風君はすでに傷だらけだったわ。止めようと思った時には、お友達が あっという間に相手を倒しちゃったしね。だから逆うらみはしないでくれるかしら」
 カオルは、景子が思い違いをしていることに気がついた。カオルの気がかりは正志の部活とけんかのことで、景子が来るのが遅かったことではない。

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