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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第四章 紛失 3

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「どうしたの? ゾーンのこと話してくれる気になったのかしら? 何か言いたくない事情があるみたいだけど、もし話してくれるなら、谷風君がとても喜ぶも のをあげてもいいわよ」
 景子がカオルの首に回していた手でカオルののどをさすると、ぞくりと反応したカオルはすわりながらも上半身が逃げ腰になる。しかし、景子はカオルが逃げ た分だけ体を寄せながら言う。
「わたしは養護教諭だから、年ごろの男の子が何をもらったら喜ぶのか、よーく知ってるわ。こう見えても、わたしは気安くないんだけど、谷風君には特別に ね」
「ちょ、ちょっと、待っ──」
 後ろへ体をかたむけて逃げるカオルに対し、景子はなやましすぎる体をカオルに乗せながら危険な色気のある顔を近づける。すると、カオルはたえ切れなくな りソファーの上に倒れた。
 その衝撃でソファーが床をこする音を立てて横にずれ、上にのっていた何かが床に落ちた。
 ──えっ?
 どさりと重めの音を立ててものが落ちたのを見たカオルは、認識不明なものを視界に入れてしまい思考停止におちいった。
 落ちたものは認識不明ではない。赤いショルダーバッグだ。認識不明なのはバッグから出てきたものだ。もし冷静な精神状態で見ていれば『それ』が何かすぐ にわかっただろう。しかし、バッグから出てくるには似つかわしくないもの、いや、ある意味この場には最も似つかわしいものだったため、思考が停止してし まったのだ。
「あら、『これ』に興味があるの?」
 カオルが表情を失っている前で、景子は『それ』を手に取った。『それ』は景子の手にとてもよくなじんでいる。いたずらっぽい笑みや、服装、体型、 性 格がそう見せるのだろう。
 黒光りする『それ』は、ロープのように環状に束ねられていて、よく見ると丁寧に編み込まれた革でできているのがわかる。
 景子は束ねを解いて肩幅ぐらいの円を形作り、両はしをつかんだ。
「試してみたいなら、してあげてもいいのよ」
 言いつつ、両手を素早く左右に開き、ピシリと鋭い音を打ち鳴らした。
 体が跳ね起きそうになる音で思考が回りだしたカオルは、『それ』が何かやっと理解した。
「ム、ムチ!」
「そうよ。よく知ってるわね」
 景子が手に持っているのは黒くて長いムチだった。景子はそのムチを手でさすりながら、猛獣使いがライオンを調教するような笑みを浮かべた。
「な、なんでムチなんか、持ってきてるんですか! 学校に!」
「ただの護身用よ」
 うそだ! 絶対にうそだ! 護身用にムチなんて聞いたことない! 他の用途があるに決まってる! つーか、景子先生はさっきからうそばっかりだ! うそ と色気でけむにまいてばっかりだ!
 絶大な不信感を抱いたカオルに、景子はほこらしげにムチを見せながら言う。
「十二フィートのロングブルウィップよ。体になじみやすいカンガルー革製で特注品なの。谷風君がゾーンのこと話してくれるなら、使い方を教えてあげてもい いわよ。もちろん、実地でね」
 お色気養護教諭、保健室、ムチ、極めつけのあやしい台詞……状況証拠は十分だ。どんなに鈍いおれでも大体わかる、この場所で何が行われてきたか! 男子 生徒に大人気なのはソレが理由に違いない!
 などと考えてしまい、引きつり顔となったカオルは、食虫直物のねん液にからめ取られた虫けらのように、上半身がソファーにあお向けにはり付いたまま動け ない。景子はそんなカオルを見てうっとりすると、くちびるをぺろりとなめ、カオルの胸もとへゆっくりと手を伸ばす。直後、大きな打撃音が部屋に響いた。一 回、二回、三回。
 目を閉じて、うっ……、と力の抜けた声を出したカオルに、大きな声が届く。
「藤宮先生! いませんかぁ!」
 男の声だ。
 カオルは状況がわからずに目を開けた。ムチを持たない方の手をカオルの胸の数センチ手前まで伸ばした景子が、保健室の入り口を厳しくにらみつけてい るのが見えた。
 どんどんどんと、またしても三回の打撃音。
 だが、カオルの体はどこも痛くない。ムチで打つ音ではなく、戸を叩く音なので当然だ。
「藤宮先生! いるんですよね、開けて下さい、岩熊です」
 三十代ぐらいの男の声だ。その男がしつこく景子を呼びながら、SMクラブ疑惑が浮上した保健室の戸をノックしているのだ。
 まさか、ガサ入れか!
 とっさにそう思ったカオルに緊張が走った。
「ちっ、あの筋肉バカね。いいところで邪魔してくれるじゃない」
 女性の陰険さを凝縮したような表情で戸をにらんでいた景子は、おもむろにショルダーバッグに手を伸ばした。特注のムチと特製のバンソウコウという危険な 組み合わせを叩き出したバッグから、ガサ入れが迫ったこの状況で、今度はどんな代物が飛び出すのかと、カオルが恐れおののいているのには目もくれず、バッ グをわしづかみした景子は、素早くムチをしまいソファーの上に置いた。
 思考とは裏腹な変な期待で、感情が高ぶっていたカオルが拍子抜けした前で、さっそうと立ち上がった景子は、黒いハイヒールで床をコツコツと叩きながら戸 のところへ歩き出した。
 これってまずい状況じゃないのか? いや絶対にまずいだろ。教師と生徒がいかがわしいことしてたってバレたら、良くて停学、悪けりゃ退学だ! いいや、 してはいないんだが。
 男の声とノックの音を聞きながら、カオルが最悪の予想をしているうちに、戸の所まで行った景子はカギを開け始めた。
 カオルが知らないうちにかけられていたカギは、内側からも開けられなくしてあったと思うほど厳重だったようで、かけた本人の景子でさえも開けるのに時間 を要した。
 景子が険しい表情で戸を開いた。
「あっ! 藤宮先生! どうもこんにちは。ご機嫌はいかがですか」
 戸の前に立っていた筋肉質の男は、景子を見るなりニコニコ顔になって入って来た。
 しかし、景子は相変わらずの険しい顔で突き放すように言った。
「今、気分が悪くなったところよ。で、今日は何の用」
「いやぁーちょっと時間が空いたもんで、藤宮先生とお話でもしようかなぁと思いまして、ははははは。それにしても、藤宮先生は今日も美しいですなぁ。ま るで保健室に咲いた大輪のバラのようですなぁ。いや、いやし の女神と言った方が──」
 先ほど岩熊と名乗ったその男は、目じりと鼻の下を伸ばした顔で、うっとりと景子のことを見ながら甘ったるい台詞を言い続ける。
 ん? なんだこの人? ほんとにガサ入れに来たのか? どう見ても景子先生に熱を上げてるようにしか見えないんだが……ん! まさか客か! 客なのか!
 カオルが妙な思考をめぐらせてる間、険しい顔で岩熊の話を聞き続けていた景子であったが、ついにたえかねたようで口を開いた。
「その話は昨日も聞いたわ。今日はとてもいそが──」
「いえいえ、今日はその話だけではなくて、ジョギングのお誘いをと思いまして。なんでも藤宮先生はジョギングが趣味で、毎日薪負い公園をジョギングされて るとか。実はわたしもジョギングが趣味でして、その、今度一緒に──」
「わたし、一人でジョギングするのが趣味なの。だから──」
「いえいえ、それは危ない! 藤宮先生のような美しい女性が一人でジョギングなんて──」
 岩熊は、すさまじい押しの強さで景子に食らい付く。それをカオルはあっけに取られて見ている。だが、今が絶好の逃げ時だと気づき、すかさず立ち上がり歩 き出す。
「景子先生、なんだかいそがしそうなんで、おれはもう帰りますね。あっ、怪我はもう大丈夫なんで心配しないで下さい。では」
「あっ、谷風君、ちょと待っ──」
「まあいいじゃありませんか、本人もああ言ってることだし。それよりも──」
 カオルは、二人の横を早足で通り過ぎて保健室を出ると、一目散に廊下を走り出した。

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