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暗闇のカオルと
閉ざされた記憶
第五章 狂言 5
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「…………」
カオルと奈々美は無言で抱き合ったまま、しばらく動けなかった。
……誰も出てこない。もしかして、気づかれなかったのか?
カオルがそう思い、胸をなで下ろした瞬間、一階の扉が開け放たれた。
「奈々美! 何をやってるの!」
目をつり上げて怒鳴りつけてきたのは、屋敷の主である藤宮景子だった。
うす紫色のレースのネグリジェを身にまとい、腕組みをした景子は、手に例のムチを持ち、おこった顔で立ちつくしている。その格好は、灰色がかった紫色の
ロングヘアと魅力的な体型を持つ景子に、不思議なほどよく似合っている。
しかし、そんな景子を見た奈々美は激しく振るえ出した。
「け、景子様、こ、これはその……」
密着した奈々美の体から、激しい振るえがカオルに伝わって来た。普通では考えられない振るえ方だ。ムチの怖さを教え込まれているのかもしれない。
だが、景子は奈々美の言葉など一切聞かず、カオルを見て険しい目になった。
「……谷風君、指輪を取り返しに忍び込んでくるとは、予想外だったわ。ゾーンを会得するだけあって大した行動力ね。今夜は楽しくなりそうね、色々と。ふふ
ふ」
カオルにあやしい色気を見せた景子が、今度は奈々美に視線を送った。
「奈々美、あなた谷風君を手引きしたのね。ドジだけど善良な大学生だと思っていたわ。でも、本当はとんだ食わせ者だったわけね。──覚悟しなさい!」
叫ぶや、景子はムチを勢いよく振るった。ムチは床に叩きつけられ、切り裂くような鋭い音を発した。
「ひえっ! そ、そんなぁ」
突然身に覚えのない罪を疑われた奈々美は、ムチの音に驚いて小さく悲鳴をあげると、カオルの体をさらに強く抱きしめた。反泣き顔でガクガクブルブル震え
る奈々美は、やはりムチの怖さを知っているに違いない。
恐らく奈々美さんは、このあとキツイキツイお仕置きを受けることだろう。景子先生の勘違いでお仕置きを受ける奈々美さんは、可哀想と言う他ないな。もし
助けられるものなら、助けてあげたい。だけど、おれは絶対につかまるわけにはいかない。つかまったら実験体にされてしまう。……ちっ、どうする?
カオルは冷静に考え、すぐに結論を出した。
「奈々美さん、誤解は自分で解いて下さい! おれは用があるので失礼します!」
「ま、ま、待って下さい! おっ、置いてかないでください! た、助けてください!」
「無理です! おれにはできません! つかまったら終わりなんです!」
カオルは奈々美のお願いを断り離れようとした。だが、奈々美はカオルに強くしがみ付いていて離れない。火事場の馬鹿力だ。
「奈々美さん、放してください! キツイお仕置きを受けるかもしれませんが、話せばきっとわかってもらえます!」
「そんなの嫌ですー、ふえーん」
カオルは強引に歩きだした。だが、奈々美は必死にしがみ付く。なので、カオルが踏ん張るたびに、石こう像に結ばれたなわに奈々美は首をしめつけられる。
ぐいぐい食い込むなわのせいで呼吸もままならない。この上なく悲惨な状態だ。
景子はそんな二人の様子を見ながら、一階の廊下を一歩一歩確実に近づいてくる。ムチを両手でもてあそびながら、獲物を追いつめる狩人のような笑みを浮か
べて。
「お願いですから、放してください! おれがつかまったら、何されるかわからないんです!」
「ふえ、ふえ、ふえーん」
奈々美はカオルの体にしがみつき、息苦しそうに泣くだけで、まともな言葉は出て来ない。
ダメだ、このままでは二人ともつかまる……
カオルはちらりと一階の廊下に目をやった。階段に差しかかろうとする景子の後ろに、男の使用人が三人ほど集まっていた。手に持った警棒でぺちぺちと手の
平を叩きながら、主人の景子と同じような笑みを浮かべている。
ちっ、こうなったら奈々美さんのなわを解いて一緒に逃げるしかない。
そう考え直したカオルは、奈々美の顔をのぞき込んだ。
「奈々美さん、わかりました。一緒に逃げましょう。そのために、首のなわを解くんで、手を放してもらえますか」
「グスッ、ほ、本当ですか? う、うそ吐いて置いていったりしませんか?」
「はい。おれを信じてください」
数瞬、カオルの目を真剣に見ていた奈々美だが、カオルのことを信じたようで、しがみ付く腕の力をすっと抜いた。すぐにカオルは奈々美の首のなわを解こう
とする。だが、かなりきつく結んである。手で解くのはまず無理だ。
何か使えるものはないかと、カオルは周囲を見渡した。けれど、美術品の置物ばかりでなわを切るハサミのような道具など見当たらない。
ちっ、さすがに何もないか。切れれば何でもいいんだが……ん! あれは!
あるものに注目したカオルは、奈々美の顔を見て言い聞かせるように言った。
「ちょっとだけ離れますが、必ず戻ります」
「は、はい!」
カオルを完全に信じているふうな、奈々美の力強い返事を聞いたカオルは、小走りでとある美術品の前に行った。西洋のよろいだ。そう、このよろいが持つ剣
ならなわを切れるかもしれない。
そうこうしているうちに、景子と三人の男は階段を上り始めていた。余裕のある表情から見て、カオルたちをつかまえる絶対の自身があるのだろう。もしかし
たら、すでに逃げ道はないのかもしれない。
「お待たせしました。今、なわを切ります!」
剣をたずさえ急いで戻ったカオルは、なわの一番はし、石こう像の腕のすぐ横の部分に剣の刃を当て、なわがゆるまないように手でしっかりおさえた。そし
て。
「はっ!」
気合を込めたかけ声とともに、一気に剣を引く。鈍い刃がせんいをぶちぶちと断ち切る感触が鉄のえから伝わってきたと思った瞬間、なわはすっぱりと切断さ
れた。すると、念願の自由を手に入れた奈々美は、花が咲いたようににこやかな顔になった。
「良し、切れた! 奈々美さん、こっちです!」
「はい!」
カオルは奈々美の手を引き走り出そうとした。そこへ。
「逃さないわよ!」
景子が鋭く言い放った。カオルたちがあたふたするのを、楽しそうに見ていた先ほどとは違い、険しい表情だ。すると、主人の気持ちを察したのか、使用人た
ちが階段をいっせいに駆け上がり始めた。
ちっ、指輪を取り戻すのはもう無理か。仕方ない、逃げることだけ考えよう。
そう考えたカオルは、奈々美の手を取り走り出した。しっとりとした奈々美の手から温かみを感じながら、侵入してきた出窓めがけ赤いじゅうたんの上を疾駆
する。
すぐに、出窓にたどり着いた。そして、窓枠に手をかけた時だった。
「カオル君、わたし、思い出したんです!」
大きな声で切り出した奈々美は、カオルが振り向くとすぐに続けた。
「昨日、景子様が普段使わない部屋から出てきたんです。もしかしたら、そこに指輪があるんじゃないですか?」
聞いた瞬間、カオルはそこに指輪があると直感した。だが、そこへ行ったら逃げられなくなるかもしれない。もし逃げられなかった場合、カオルだけでなく、
きっと奈々美もひどい目にあうだろう。だが、今ならほぼ確実に逃げられる。
カオルが重大なことを決められず、どうするべきかなやみかけた時。
「カオル君、行きましょう! きっと大切な指輪なんですよね、あきらめたらだめです!」
「……逃げられなくなるかもしれないんですよ?」
「きっと、大丈夫です! その時はまた、カオル君がなんとかしてくれます!」
さっきなわを切ってくれたカオルのことを頼もしく思ったのだろうか、奈々美は何の確信もないことを自信たっぷりに言い切った。だが、何の確信もないはず
のその言葉は、迷えるカオルには最高のはげましになった。
「ありがとう、奈々美さん。──案内をお願いします!」
「はい!」
奈々美は満面の笑みで答えた。カオルの役に立てるのがとてもうれしいと、可愛らしい顔いっぱいに表しているかのようだ。そして、今度は先ほどとは逆に、
奈々美がカオルの手を取ってさっそうと走り出した。
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