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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第五章 狂言 8

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 電灯の光が、足もとの芝生を優しく照らしている緑道公園の一画。
 まばらに植えられた木の枝が、そよ風でかすかにゆれている。空に雲はないものの星はわずかしか見えず、赤い満月が夜空を支配している。
 景子邸が見えなくなるまで走ってきたカオルと奈々美は、ひざに手を突き仲良く息を切らしていた。辺りに人影はなく、静かな夜に荒い呼吸の音がよく響く。
 カオルは顔を上げ奈々美の顔を見ると、ちょうど奈々美も顔を上げたところで、お互いの目が合った。
「……はぁ、はぁ、はぁ、ふふ……、はぁ、はぁ、はは、はははは、ははははは」
 二人の呼吸に少しずつ笑いが混じり、とうとう完全な笑いになった。
 カオルにも、恐らく奈々美にも、何がおかしいのかよくわからない。だが、未だに興奮が覚めないカオルたちは、息切れで苦しいにも関わらず、見つめ合って 笑い続ける。
 すると、カオルは突然めまいに襲われた。頭がくらくらして、目の前が少しずつ暗くなったかと思うと、とても小さい黒い穴が次々に視界に開くように景色が 見えなくなっていく。
「カ、カオル君? どうしたんですか? し、しっかり──さい! カ──!、──」
 目の前にいるはずの奈々美の声が遠くに聞こえ、その声もどんどん聞こえなくなっていく。そして、前によろけたと思ったあとは何も聞こえなくなった。
 何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。立っているのか、すわっているのかわからない。思考もほとんど働かず、時間の感覚さえあいまいだ。だが、なん だかとても気持ちが良く、心が落ち着く。熱く興奮していた感情が、ひんやりとした風でゆっくりと冷まされるような感覚だ。さっきのめまいによる気分の悪さ はまったく無くなっている。
 その感覚がどのくらい続いたのか、カオルにはわからない。十秒なのか二十秒なのか、一分なのか、二分なのか。少しずつ意識が戻ってくるにともない、温か くやわらかいものの感触が体全体に伝わってきた。
 カオルは目を開いた。すると、緑の芝生が目の前にあった。どうやら倒れていたようだ。
 それから、両手を突いて体を起こした。
 ──えっ!
 視界に映ったものに驚いたカオルは、一瞬全身が硬直したあと、緊張が一気に極限に達し、心臓が狂ったように高鳴りだす。あまりのことに頭が真っ白になり 言葉など一つも出てこない。
 な、なんだこれは……
 激しい疑問と動揺に襲われたカオルが目をこらすと、それは間違いなく奈々美だった。ほんのりほおを赤らめ芝生の上にあおむけになった奈々美が、吐息がか かるほど間近で、恥ずかしそうにカオルのことを見つめている。
 そう、カオルが見ているのは、地面に押し倒されている奈々美の姿だ。なんとカオル自身が、奈々 美の上におおい被さるような体勢でのしかかっているのだ。
「カオル君……気分はどうですか?」
 上目づかいで見つめている奈々美が、固まったまま動かないカオルに聞いた。
「えっ? あ? き、気分? 気分は、いいよ。うん、す、すごく」
「そうですか、それなら……」
 奈々美は視線を横へそらすと、もじもじと体を動かした。
「ご、ごめん! い、今どく!」
 早くどいてほしいのだと思ったカオルは、急いで立ち上がると、奈々美の手を引いた。
「あっ、ありがとうございます」
 奈々美は、相変わらずの恥ずかしそうな表情で、丁寧にお礼を言いながら立ち上がると、こん色のエプロンドレスに付いた芝をぱたぱたと払ってから、カオル の顔を見た。
「で、でも、よかったです。カオル君はもう本当に大丈夫みたいです」
「あ、ああ、もう、全然大丈夫。ほら、この通り!」
 恥ずかしさがまだ消えないカオルは、それをまぎらわすように、とっさにラジオ体操第二をして見せた。その動きがおかしかったのか、奈々美はくすくすと笑 いだす。その奈々美の楽しそうな顔を見ながら、カオルは状況を少しずつ思い出していく。
 そうだ、確か立ちくらみがしたんだ。それで、奈々美さんの上に倒れたのか。それ以外は考えられないよな。でも、どのくらいの時間、奈々美さんの上にいた んだろう……
 カオルの動きが止まった。すると、それまで楽しそうに笑っていた奈々美が、かすかに首をかしげる。その直後、はっと何か大切な事を思い出したような顔を すると、急にかしこまった。
「わたしったら、すっかり忘れてました。まだ、カオル君にお礼を言ってません」
「えっ? お礼?」
「はい。カオル君に危ないところを助けてもらいました。本当にありがとうございました」
 奈々美はそう言うと、丁寧に頭を下げた。
 カオルはさっき起こった事を思い出そうとした。景子の屋敷に忍び込んだこと。そこで奈々美に会ったこと。景子に見つかり一緒に逃げたこと。指輪を見つけ たこと。ムチをうばって脱出したこと。それらのことは、確かにカオルの記憶にある。だが、まるで大昔のことのように感じる。昨日の夜に見た夢のようだと 言った方が正確かもしれない。今記憶をたどらなければ、次の日には忘れてしまう。それほどにかすかであいまいな記憶だ。
 遠くを見つめるような表情のカオルに、奈々美はふたたび頭を下げて言った。
「お仕事は失ってしまいましたが、両親に頂いた大切な命は失わずに済みました。ありがとうございました」
「それは大げさだよ」
「いいえ! そんなことはありません!」
 すごく真剣な顔をカオルに近づけ、力強く否定した。いったいどんなお仕置きを想像したのだろうか。
 しかしその直後、またしても大切な何かを思い出したように、はっとした顔をし、ああーっ、と今度は大きな声を出した。それから、すぐに悲しそうな表情に なる。涙は流してないが、完全に泣いている顔だ。
「ど、どうしたの?」
「うぅー……、景子様からお給料を頂いてません。明日、頂くはずだったのに……」
 カオルは動きが止まった。だが、少しずつお腹から笑いがわき起こる。喜んだり、悲しんだり、真剣になったりと、ころころと変わる奈々美の表情。それらが 立て続けに頭をよぎった時、ついにお腹を抱えて大笑いを始めた。
「笑いごとではないです!」
 今度は真剣におこった顔だ。しかし、すぐにいじけたような表情になったかと思うと、くすくすと笑いだし、最後にはカオルと同じようにお腹を抱えて笑いだ した。
 どのくらいの時間、二人で笑っていただろうか。少しずつ笑いの治まってきた奈々美が、涙をふきながら言った。
「そろそろ帰らないといけませんね」
「そうだね」
 同じように涙をふきながら答えるカオルに、奈々美はまた深々と頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました」
「いや、おれの方こそ、奈々美さんのおかげで指輪を取り戻せたよ。ありがとう」
「どう致しまして。わたしの家はこっちの方向ですが、カオル君はどっちですか?」
「おれも同じ。……ん! しまった、自転車を忘れてた。取りに戻らないといけないから、逆方向だ」
 奈々美はとても悲しそうな顔をしてから言った。
「そうですか、わたしも一緒に行きましょうか?」
「いや、景子先生の家のそばだから、おれ一人で行く」
「わかりました。カオル君ならきっと大丈夫ですよね。では、わたしはもう行きますね」
 奈々美はそう言って、頭をぺこりと下げると、カオルに背を向け歩き出した。
「奈々美さん、また今度」
 カオルが奈々美の背中に向かってあいさつすると、奈々美は振り向きまたぺこりと頭を下げたあと、軽やかな足取りで去っていく。
 カオルは、そんな奈々美の後ろ姿をほほ笑ましげに見送る。だが。
 ──はて?
 奈々美の背中に妙なものを見て、カオルは目をこすった。そして、疑わしげな顔をすると、もう一度奈々美の背中を見た。だが、やはりそこには何かある。例 えるなら、しっぽのようなものがくっついていて、奈々美の足取りに合わせてぴょこぴょこと可愛らしく跳ねている。
 あれは何だ?
 カオルは目をこらしてじっとそれを見つめた。すると……それはしっぽなどではなく、なわのように見える。いや、なわだ! なわそのものだ! お仕置きの 際、妙な石こう像と首をつないでいたなわが、首から背中にぶら下がっているのだ!
 夜に可愛いメイド服の姿で、首からなわを下げ帰宅する女の子。新たな災難が訪れなければよいのだが……
 カオルは奈々美の背中に心からの祈りをささげた。
 奈々美さんが誰にも会わずに家に帰れますように。

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