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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第七章 激情 5

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 草原に転がった男子の中にはまだ動ける者もいる。だが、ただ一人を除いて、その者たちに戦う意志は一切ないようで、恐怖がありありと現れた目でカオルの ことを見ている。
 血に飢えたけもののような、カオルの険しい目が、闘志をにじませるただ一人の男子をとらえた。苦しそうに歯をむき出しにして腹を抱えながらも、カオルを 強 烈ににらみつけている。
 カオルはその鮫口に向かってゆっくりと歩きだした。
「カ、カオル……」
 彩華の不安そうな声が小さくもれた。
 カオルの後ろ姿を見る彩華の顔は、血の気が失せて白くなっており、驚きと戸惑いと不安がはっきりと現れていた。
 しかし、カオルは彩華の声が聞こえなかったのか、言葉の理解できない、見た目通りのけものに成り果ててしまったのか、一切反応することはない。前かがみ の体勢で引き寄せられるように鮫口に近づいていく。白黒の世界の中で、相手への怒りの念を頭の中でくり返しながら。
 ……お前たちは許さねぇ……おれをいじめるために、彩華や正志まで巻き込んで苦しめ、そして彩華を傷つけた……おれのためにあんなに怒ってくれた彩華 を……許さねェ……母さんの形見の指輪を盗んだことも……岸里を使っておれを呼び出したことも……何もかも全て許さねぇ……絶対に許さねェ……
 それはもはや、まともな思考ではなかった。いや、かろうじて思考になっているだけいいのかもしれない。心の中を激しく渦巻く激情によって、最後に残った 理性さえも失ってしまうよりは。
 しかし、その激情は今もなお激しさを増しつつあった。これまでカオルが味わった苦しみが、鮫口とは直接関係のない苦しみまでもが、カオルの脳裏をよぎる たびに、カオルの激情は高まり、着実にその理性を破壊していく。そして、もし仮に、この激情によって最後の理性さえも失った場合、カオルはどうなってしま うのだろうか。
 カオルは、地面に転がる鮫口のかたわらで止まった。
 狂った野犬が人にうなるような低いうめきをもらしながら、カオルは拳を振り上げた。
 そして、いつも見る悪夢のように、鮫口を殴りまくり血まみれのかたまりに変えるつもりなのか、声同様の狂った野犬のような目で鮫口を見すえると、激しい 怒りを浮かべる鮫口の顔面へ力の限り殴りかかった。その時。
「カオル! ダメ!」
 彩華のあまりに悲しい叫びが響き渡った。
 カオルは激情に包まれ、白黒の鮫口が映る視覚以外は一切の感覚を受け付けない状態だったが、その叫び声は渦巻く激情にかき消されず、カオルの心を吹き抜 けた。
 カオルの動きが止まった。
 拳を振り下ろそうとしたままのカオルの背中に、彩華は悲しい声で語りかける。
「……もう、それ以上は……どんなに憎い相手でも、ね、カオル……」
 彩華はカオルに向かってゆっくりと歩き出した。
「カオルの悔しい気持ち、わたしにはよくわる。うん、よく分かるよ。その気持ちを、カオルがどうしてもおさえきれないことも。でも、……でもね……これ以 上やったら、カオルが……カオル自身が、もっとつらくなるから……だから、ね、カオル──」
 話しながらカオルのすぐ後ろまで来た彩華は、寄りそうようにそっとカオルの背中を抱きしめると、優しくいざなうように言った。
「もう、やめよう」
 カオルの背中に彩華の温かさがほんのりと伝わってきた。服の生地を通して伝わってくるその温かさは、少しずつカオルの激情を和らげ、失われかけていた理 性を呼び戻す。そして、その理性が、温かさの中にふくまれる彩華の気づかいを、カオルのことを本当に心配している彩華の優しい気持ちを確かに感じ取った 時、カオルの視界に色彩が戻った。
 カオルは拳から力を抜き、ゆっくりと下げた。
 それから、理性の光が宿り始めたひとみで鮫口を見た。
 地面に片ひじを突いて上半身を起こしている鮫口は、今もなお腹をおさえている。しかし、顔に現れている獰猛ど うもうさは、まったくおとろえていなかった。
 その鮫口が、低くうなるような声を出しながら立ち上がる。
「ああぁ、どうした、もう終わりにするのか」
 まるで、今まで互角に戦っていたような言い振りだった。
 立ち上がった鮫口は、今度は気迫のこもった怒鳴りをカオルにぶつける。
「かかってこいよ! おらアァ!」
 だが、鮫口からはしかけてこない。カオルの知る鮫口であれば、確実に殴りかかってくる状況なのに。
 カオルはその鮫口を見上げた。すると、和らぎ始めていた激情が戻りだし、ひとみにふたたび険しさが現れ出した。だが、その直後、彩華が大きく腕を振り払 い、険しい声で切りつけるように言い放った。
「もう消えて! 二度とわたしたちの前に現れないで!」
 彩華の鋭い視線は、鮫口の目を真正面から貫いていた。
 数秒の沈黙。
 氷のやいばがかくされたような緊迫した空気が、その数秒をたえがたいほど長く感じさせる。
 けれども、鮫口はしかけてこなかった。
 カオルから視線を外すと、今もまだ倒れている内寺のもとへゆっくりと歩いて行く。
 が、ふと立ち止まった。それから、カオルたちの方へ振り返り、威圧するような厳しい顔でまたも気迫の怒鳴りを張り上げる。
「女にかくれて、けんかもできねぇヘタれが! 調子づくんじゃねぇぞォ!」
 言い終えたあと、強烈なにらみをカオルに叩きつけ、内寺の方へ歩いて行った。
 それを見た仲間の男子たちも、ゆっくりと起き上がると、まだ動けない者に手を貸して立ち上がらせる。そして、なんとか全員立ち上がると、カオルと彩華へ 激しい憎しみのこもった視線を向けたあと、立ち去りだした。

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