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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第七章 激情 6

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 だいぶ暗くなった河川敷。うす暗い雲におおわれ空は一切見えない。
 不気味ささえ感じるような雲の下、男子たちが立ち去る姿を見ているカオル。
 そのカオルの心もまた、得体の知れない不気味な感情に支配されていた。ぞくぞくと身震いを起こさせるようなその感情は、不安と恐怖を混ぜ合わせたような 感情だ。だが、なぜカオルがこのような感情に支配されなければならないのか。今のけんかはカオルが勝ったはずなのに。悪夢となってまでカオルを苦しめる鮫 口を、おのれの拳でもって倒したはずなのに。その理由がカオルにはわからない。理由が分からないことが、さらにカオルの不安と恐怖を加速させる。
 そして、遠ざかる鮫口たちの姿が、だいぶ小さくなった時だった。
 ゆらゆらと地面がゆれたかと思うと、辺りがどんどん暗くなり初めた。
 ふらふら、ゆらゆらする奇妙な地震。その奇妙さは、すぐに体にも伝染する。なんと、体が少しずつうすれていっている。いや、違う。全身の感覚が弱まって いっているのだ。体のあちこちに感じる痛みがどんどん弱まっている。痛みだけではない、目で見る河川敷の景色が、耳で聞く風の音が、鼻でかぐ草のにおいが どんどんと弱まっていっている。
 そうだ、これはめまいだ。たまに襲われることがある、あのめまいだ。
 くらくらする頭でそう思った時には、視界は完全に真っ暗になっていた。
「カオル? どうしたの、カ──。ちょっと──!──」
 彩華の声だ。だが、その声もどんどん小さくなり、すぐに聞こえなくなった。
 何もない真っ暗な宇宙空間。そこには光がなく、音がなく、重力がなく、そして時間さえもない。あらゆるものがない。
 その宇宙空間に、一人ただようように浮かんでいるカオル。何か考えることもなく、ただ存在するだけ。なので、一切何も感じないはずなのだが、なぜかカオ ル の心だけは温かい光で照らされているかのように、ぽかぽかと温かさを感じている。とても気持ちいい。先ほど感じていた、不安だか恐怖だかわからない不気味 な感情は、すぐに消えてしまった。それから、優しい感情がだんだんとふくらみだし、こころを満たしていく。
 やがて、このままこの空間をずっとただよっていたいと、カオルが思い始めたころ、少しずつ意識が戻りだした。
 頭の後ろに温かさが伝わってきた。同時に、張りのあるやわらかさも感じる。
 カオルはゆっくりと目を開けた。
 少し雲が晴れ一番星が輝き始めた夕闇の空を背に、夜の女神が優しくほほ笑みかけていた。
「カオル、気分はどう?」
 女神は彩華の声で語りかけてきた。
 なぜ女神がいるのか気になったためか、あるいはその美しさに見とれてしまったためか、カオルは答えず女神の顔を見続けた。
「……まだ良くないみたいね。しょうがない、もう少しだけサービスしてあげる」
 やはり、彩華の声だ。いや、違う。声だけでなく、姿も彩華だ。まだ感覚が完全に戻っていないので見間違えたみたいだ。どうやら、草原にあおむけに寝そ べっ ているカオルを、すわった体勢の彩華がのぞき込み、話かけているようだ。
 カオルは起き上がろうと体に力を入れた。瞬間、体中に激痛が走った。
 腹、胸、ももなど、体中のいたる所からづきりと押し寄せた痛みに、苦しげに顔をゆがめたカオルは、横向きになって丸まり腹と胸をおさえた。
「ちょっと! 突然どうしたの? ……まさか、わたしのひざまくらが気に入らないっていうの!」
 なぜか、突然怒りだした彩華。だが、そんな彩華の言葉を聞き取る余裕は、カオルにはない。体が痛まないように極力注意しながら、体の力を少しずつ抜いて いく。すると、痛みが少し和らぎ、なんとかたえられるぐらいになった。どうやら、力の入れ方を加減すればなんとか立てそうだ。
 軽く痛そうな顔をしながらも、カオルはゆっくりと立ち上がる。
 そのあいだに彩華は、「ちょっと気を利かせてあげれば」とか、「ほんと失礼なんだから」とか、カオルには意味のわからないことをぶつぶつと言っていた が、カオルが立ち上がると顔をのぞき込んで聞いてきた。
「で、体の方は大丈夫なの?」
「ああ、多分な」
「多分て何よ」
「医者じゃねーから、わからねーよ」
「……お医者さんごっこしたいの?」
「し、したくねーよ!」
 カオルは思わず声を荒げた。すぐに、彩華と目が合う。すると、二人同時に吹き出すように笑い出し、夕闇の空に二人の楽しそうな笑いがこだまする。だが。
「痛い……」
 彩華が突然顔をしかめ、口もとに手を当てた。
 笑うのをやめたカオルが注目する前で、彩華は口もとに当てた手をそっとどけた。ほおから口もとが青くなってはれており、くちびるのはしは少し切れてい る。恐らく口の中はもっと切れており、笑った時に痛みが走ったのだろう。
 それを見たカオルは、遠い昔のことのように、うすれてあいまいになっている記憶を思い出す。そう、彩華のその怪我は、カオルのことで内寺に怒りをぶつけ た彩華が、逆に殴られて負ったものだ。
 それなのにカオルは、そのことを忘れて浮かれて笑っていた。全ての原因は自分なのに。その記憶自体も忘れかけて。
「泣きそうな顔しないの」
 彩華がカオルの顔をのぞき込んでいた。
「カオルが悪いわけじゃないんだから、もっと堂々としてなさい!」
「……でも」
 確かに、カオルは悪くはないかもしれない。だが、もし、カオルがいなければ、こんなことにはならなかった。やはり、彩華が顔に怪我をしたことに、カオル が深く関わっていることに違いはない。
「あー、もうー、そういうの、カオルの悪いクセよ! 過ぎたことで、そんなになやまないの! ほら、もう帰るわよ!」
 彩華はカオルをしかりつけると、土手に向かって歩き出した。
 悪いクセとやらをしかられたカオルだが、しかし、なぜか気分が少し晴れている。
 もし、彩華が顔の怪我で落ち込んでいたら、カオルはさらに落ち込んでいただろう。彩華がそんな素振りを一切見せず、しかってくれたからこそ、カオルは気 分が晴れたのだ。この時カオルは、彩華がしかってくれた意味など考えはしなかったが、それは彩華の気づかいなのか、単にそういう性格なのか、いったいどち らなのだろうか。
 さらに雲が晴れ、一番星のあとに続くように二番星が輝きだした夕闇の空の下、彩華のあとに続くようにカオルも草原を歩き出した。

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