トップへ>目
次へ>このページ
暗闇のカオルと
閉ざされた記憶
第九章 怪物 5
前のページへ 目次に戻る 次のページへ
電話のベルを機械で再現したような音。間違いない、携帯電話の呼び出し音だ。
すると、青浦のとなりの男がスーツの内ポケットに手を忍ばせて、携帯電話をつまみ出し、口もとを手でかくしながら会話を始める。ところが、その能面のよ
うな
顔の男は通話をすぐに終了させ、青浦の耳もとに顔を寄せた。
「何! 桜川が動いているのですか!」
青浦が大声を上げたのに対し、能面男は無機質な声で、はい、とだけ返した。
「くそっ、なぜです! 少なくとも明日までは、かくし通せたはずです!」
「恐らく、あの男がもらしたのでしょう」
「あの男ですか! くそっ! 桜川の犬だったのですか!」
「いいえ、恐らく、調査室と通じていたのでしょう」
「政府の役人とですか! やむをえません、今すぐCIAとコンタクトを取って、予定を今夜にくり上げさせてください」
「まだカードがそろってませんが……」
「ふせておいてください。最悪の場合は代品を使います」
「わかりました」
能面男は了解すると、素早く携帯を操作し、またも口もとを手でかくしながら通話を始めた。かなり大掛かりに動いているようだ。強化人間探しのサイトも、掲示板での書き込み削除も彼らの仕業なのかもしれない。
その横で、青浦は少し深刻そうな顔でマリーに話しかけた。
「マリー、聞いての通りです。ここは黒竜さんにまかせて、わたしたちは行きますよ」
「そう、勝手に行けば」
「君が来ないと意味がないでしょう! ですから、ここは黒竜さんに一任します」
「こんな無能なノーマルたちが、アルタードをつかまえられると思ってるの?」
「相手は視覚型です。それに、もし失敗した場合は代品があります」
「ムリよ、どっちも。無能は無能。代品は代品。それ以上ではないの」
「ですが、このままでは──」
「うるさいわね! 少しは自分でなんとかしなさいよ! そんなことだからいつも詩織に負けるのよ!」
言え終えると、マリーはカオルの方へ向き直った。
「邪魔が入ったわね。けど安心して。わたしとお兄様のどちらが強いか、ちゃんとわからせてあげるから」
マリーはカオルへ向かって歩き出した。
そのゆっくりな歩きからは、先ほどの異常な動きは到底想像できない。だが、その異常な動きで男たちを次々に倒した光景は、カオルの脳裏に鮮明に残ってお
り、恐怖による緊張がカオルの体にぞくりと走る。
──来る。
カオルは後ろ足を引いて身構えた。その背を冷たい汗が静かに流れる。
そのカオルの五、六歩ほど横で、厳しい面持ちの正志もゆっくりと腰を沈めた。
マリーは迫りながら、正志をちらりと見て無感情な声で言った。
「ノーマルに用はないわ。引っ込んでなさい」
正志のことなど、まるで相手にしていないようなマリーの言動。いつもの正志であれば、ひにくのこもった軽口で応戦するところだが、ただ無言のままさらに
深く腰を沈めただけだ。危険過ぎる相手を前にして言葉など話す余裕がないと、正志が放つ緊張が語っている。
「……そう、死にたいのね」
マリーがいい終えた瞬間だった。
なめらかな動きからは想像できない速度で、マリーが正志のふところにすべり込んだと見えた時には、正志は後方へ吹っ飛んでいた。
放った言葉が空気を伝わるよりも、さらに速いと思えるようなマリーの移動。それはカオルに集中力を高める時間さえ与えず、一切反応させない内に、倒れされ
ている男たちと同じ運命を正志にもたらした。瞬時にそう思えた。だが、心臓がばくばくと鼓動する音を聞きながら、カオルが見ている光景は別のものであっ
た。
なんと、正志は男たちのように倒れてはいないのだ。
三メートルほど後方で、足から着地し片ひざを突いた姿勢のまま、マリーの方を見ている。
「あんた、ほんとにノーマル?」
地に体が付きそうな前傾姿勢のまま、マリーがあやしむような表情で聞いた。突き出した右拳は、固定されているかのごとく、ぶれてさえいない。
だが、正志は何も答えない。痛そうな表情でマリーをじっと見ているだけだ。
すると、マリーはまっすぐに立ちながら、突き出していた腕を大きく払った。その瞬間、拳から飛び散ったしずくが敷石を打ち、雨粒が落ちるような音を立て
た。だが、それは雨粒などではなかった。赤い色の雨粒などない。それは血だ。
直後、正志はかくりと顔をふせて、手を地面に突いた。
「正志!」
カオルと彩華の叫びが重なった。
正志はすぐに顔を上げると、血の気の引いた顔にかすかに笑みを浮かべて言った。
「……大丈夫だ」
しかし、言葉とは正反対に、足もとに血のしずくが落ちた。右手からだ。
見ると、右腕の出血がひどくなっており、ぽたり、ぽたりと、血のしずくがさらに落ちては、足もとに小さな血だまりを作りだす。マリーが突進とともに放っ
た正拳を、正志は右腕の怪我した部分で受けてしまったのだ。鮫口にナイフで切られ怪我をした部分で。
正志が大切な右腕にさらなる痛手を受けたと知り、カオルはかすかに振るえ出す。
だが、その横で、無感情な顔に戻ったマリーは正志に言った。
「まあ、ノーマルでも、アルタードでも、別にどちらでもいいわ。わたしの方が強いことに変わりはないから。それから」
正志のそばに立つ二人の男を指差した。
「あんたたち。そいつのことをおさえておきなさい。お兄様との戦いを邪魔されたくないから」
すると、命令された男たちは、あわてて正志のことを取り押さえる。
それを見て、ずきりと心が痛んだカオルにマリーは向き直り、鋭い目付きになって言う。
「それじゃあ早速、──始めるわよ!」
瞬間、眼前に迫った影に、とっさにカオルは交差させた両腕を上げて顔をかばう。
だが、弾丸の直撃のような激しい痛みと衝撃を受けた両腕が、体にまで衝撃を伝えながら後方に弾かれ、その勢いで体を宙にひっぱり上げる。すると、視界が
激しくぶれながらも開け、くちびるの片はしをつり上げたマリーの顔と、振り上げられる細い足が写った。直後、側頭部をかばった腕を貫通したてきた衝撃で、
またもぶれた視界がぐるりと四半回転したと思った時には、砂利の上に体を横から叩きつけられ、苦鳴と空気を吐き出していた。
激しい痛みを訴える肩と腰。しかし、それらをかばう時間など一瞬もなく、残像のような黒い影が迫る。
あせりが全身を駆けめぐったカオルは、反射的に転がった。
もといた場所に砲丸の着弾のような地響きが生じ、衝撃で砂利が四方に飛び散る。
それは、マリーの振り下ろしたかかとの一撃だったと、飛び散った砂利を顔に受けながら見定めたカオルへ、拳をめいっぱい後ろへ引いたマリーが迫る。
ちっ、それなら。
カオルは再度転がり右手でつかんだ砂利をマリーの顔へ投げつけ、マリーが打ち出そうとしていた拳で顔をかばったところを、さらに転がり今度は左手でつか
んだ砂利をマリーの顔へ投げつけた。すると、マリーはもう片方の手でも顔をかばったため、がら空きになった腹がカオルの視界に写り込んだ。
──今だ!
転がったままの体勢で、カオルは全身を思い切り丸めて足を引きつけると、がら空きのマリーの腹めがけ、ありったけの力を込めた蹴りを放つ。
蹴り足が、かわいた風切り音を立てて空を突き抜ける。
両手で顔をかばったままのマリーは一切反応できず、腹に直撃を受け、衝撃で体が宙に浮いた。
だが。
蹴りを決めたはずのカオルが驚きで目を見開くと、その目の前で、マリーはふわりと軽やかに着地した。
驚きで、一瞬動きが止まっていたカオルだが、素早く距離を取りながらすぐに起き上がる。
「なんだ、今のは……」
思わずもらした言葉は、蹴りを決めた際の感触に対してだ。
人の腹、それも少女の腹を蹴ったとは思えない異常な感触。
それは、校庭に置かれている銅像を蹴ったような、硬く重い感触だった。着地する際の、羽毛のような軽やかさがうそみたいだ。しかも、強烈な衝撃が、カオ
ルの足に未だに残っているにも関わらず、マリーは何ともないようなすずしい顔だ。やせ我慢しているようにも到底見えない。
さらなるあせりがカオルの全身を駆けめぐる。
こ、こいつはやはり普通じゃない。まともに相手にしたらダメだ。だけど……
マリーは極めて危険な相手だと再認識したカオルは、戦わずに逃げることを考る。一番妥当な選択だ。だが、正志も、奈々美も、景子も、男たちにつかまって
いる。このままでは逃げることさえできない。
前のページへ 目次に戻る 次のページへ
トップへ>目次へ>このページ