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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第十章 邂逅かいこう 9

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 わずか一時間前は、鮫口は死にそうなぐらいぼろぼろだった。けれど、今、力強く歩いて迫る姿には力がみなぎっている。強化人間になることで、ひ ん死の重傷をわずかな時間で回復した上、超人的な能力を得たのだろう。
 その変わり様に、強化人間開発の真価を垣間見たカオルは、底知れない恐ろしさがじわじわと込み上げてくる。しかし、そんな恐ろしさより、目の前の鮫口の 放つ狂気の方がカオルにはずっと恐ろしかった。鮫口の表情は、小学生時代にカオルをいたぶった時のものだからだ。唯一の違いは、カオルををなぶり殺そうと いう強い意志が、今の鮫口のひとみには宿っていることだ。
 かつての恐怖が舞い戻り体がすくんだ。心のおびえを表すように、心臓の鼓動がどきどきと早まり、引きつったほおに冷や汗が流れた。
 そのカオルをにらみ下ろしながら目の前まで来た鮫口は、無抵抗の者をいたぶるように無造作に拳を振った。
 いきなり顔面に迫った拳に、はっとあせり体をとっさに横へ反らすと、拳は顔の横すれすれを通過した。風音が髪をかすめる。
 だが、立て続けに放たれたもう一方の拳が、かわす動きのままのカオルの顔を誘導弾のごとく追撃していた。
 かわせるタイミングではなかった。鉄のように重く固い鮫口の拳が、カオルのあごを撃ち抜き砕いたことだろう、普通ならば。けれど、たび重なる練習で体に 刻み込まれた動きは考えるより早く出る。
 あごを横から撃ち抜かれる直前、瞬時に暗くなった視界で反射的にのけ反り攻撃をかわすと、反動を利用しておのれの拳を思い切り振り上げた。
 鋭い風音を立ててカオルの拳が跳ね上がる。
 今度は逆に、カオルの拳が鮫口のあごを下から撃ち抜く。そう思った瞬間、カオルは胸に激しい重圧の体当たりを食らい、ごふっと苦しげに息を吐き出して後 方へ大きく吹っ飛んだ。じゅうたんを踏ん張り、なんとか倒れずに踏み止まる。そこへ素早く伸びてきた腕がカオルの胸倉をつかんだ。
「……つかまえたぜ」
 すぐそこにある鮫口の顔がにやりと笑みを浮かべた。
「うっとおしく、ちょこまか動きやがって……けど、それも終わりだ」
 鮫口は言いながら両腕でカオルの首もとをつかみ直すと、その太い腕にありったけの力を込めて首をひねりあげた。カオルも両手で振りほどこうと するが、鮫口の怪力には到底歯が立たない。そのまましめ上げられて、かかとが浮きあがり、顔が赤みを帯びてくる。
 カオルは手にさらなる力を込めながら、鮫口の顔を見た。
 絶対に許せない相手に、執念のこもった怒りをぶつけるような顔だった。
 非常なほどの執念。カオルを打ちのめすために、いつまでも、どこまでも付きまとい、あらゆるものを犠牲にするのをいとわない異常なまでの執着。カオルは 本当に恐ろしいと思った。心の底から恐怖を感じた。鮫口の強さ以上に、その執念が恐ろしかった。
 その鮫口の執念は、かつてカオルに倒されたのに由来する。強さに絶対のほこりを持つ鮫口だからこそ、いじめていた相手であるカオルに倒されたことは、絶 対に受け入れられなかったのだろう。
 だが、しかしだ。だからといって、カオルが悪いのだろうか。いじめに屈した自分が許せなかったカオルが、自分のほこりを取り戻そうと、勝てないだろう相 手にふたたび挑んだのが悪かったのだろうか。そんなことせずに、自分はいじめに勝てない弱い人間だと受け入れ、一生劣等感を感じながら生きていけばよかっ たのだろうか。
 ──違う! それは絶対に違う!
 カオルは心で叫んだ。すると、熱い感情が心に激しく巻き起こる。カオルに悪意を向けて来た相手に、何度となく抱いたその感情。それは激しい怒りだ。鮫口 が向けてくる理不尽な怒りと憎しみに対し、カオルもまた、体を振るわせ心を燃え上がらせる猛烈な怒りが生じ一気に爆発したのだ。
 カオルは、鮫口の手をほどこうとしていた手を放し、顔面に殴りかかった。
 鮫口はわずかに顔をかたむけ見事にかわした。
 ──全ての原因は、お前たちがおれをいじめたことだ!
 もう一度殴りかかった。半分つり上げられた不安定な姿勢では考えられない鋭い一撃。
 寸前で顔が逆側にかたむく。拳は空気を貫くに終わる。
 そうしている間に、酸欠はどんどんひどくなり、少しずつ意識がもうろうとなる。けれどもカオルは、心からわき上がる怒りにまかせ拳を振るう。しかし、力 のこもった攻撃はことごとくかわされ、弱い攻撃はほとんど痛手を与えられない。
 ついに視界がかすみ、鮫口がぼやけて見えだした。ねらいがほとんど定まらない。
 それでもカオルは、鮫口に負けないほどの執念を顔に表すと、拳を振るっていた手を鮫口の眼前へゆっくりと伸ばし、まるで握りつぶすように、震える両手で 顔面をつかんだ。
 ──おれは自分を守るために立ち向ったんだ。おれが悪いなんて絶対に認めない!
 ふたたび心で叫ぶと同時に、残った最後の力を込めて、ひざを思い切り蹴り上げた。
 すると、強烈なひざ蹴りをまともに腹に食らった鮫口は、背中まで突き抜けた衝撃で一瞬跳ね上がった。そして、カオルの首をしめていた手を放しその場にう ずくまる と、腹をおさえたまま動かなくなった。
 いくら動体視力が強化されていようと、顔面をつかまれ視界をふさがれていては意味がない。カオルの不屈の闘士が偶然の一撃を生み出したのだ。
 開放されたカオルは素早く距離を取り、首をおさえながら荒い呼吸をくり返した。そうしたら、少しして意識が鮮明になり、視界もはっきりと見えてくる。 牙をむく狂犬のような鮫口が映り込む。
 怒りの鮫口は、突進するように踏み込むと、力まかせに拳を大きく振り抜いた。
 だが、動体視力が極限まで高いカオルと鮫口の戦いに、そんな攻撃は意味がない。いや、それどころか命取りでしかない。カオルはその拳を難なくかわすと、 逆にその腕を取りながら足を引っかけ、鮫口を勢いのまま床に叩きつけた。すると、赤いじゅうたんの床へ鮫口は胸から激突し、腕を取られた方の肩がぼくりと 鈍い音を生じた。
 つかみ合いを嫌うカオルは、すぐに距離を取り鮫口を見た。
 肩をおさえて床に転がったまま動けないでいた。
 転倒の衝撃を肩に受け、脱きゅうしたのだろう。相当痛いのか、少しの間そのままうめいていた。だが、ゆっくりと立ち上がると、青浦の方へ背を丸めながら 退いていく。戦意を失ったのだろうか。
 カオルだけでなく、彩華、景子、奈々美、中久ら使用人たちが、みな息を殺して見守る中、鮫口は痛そうに肩をおさえて青浦の前でうずくまった。

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