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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第十一章 死闘 2

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 その場の全員が無言で鮫口に注目し、静まり返った空気に重苦しい緊張がただよう。
 誰一人身動き一つしない。とてもゆっくりと時間が流れていく。正面階段の方向から、柱時計が時を刻む音が広間に響き渡る。遅れそうになる時間の流れを正 そうとしているかのようだ。
 そんな中、鮫口は青浦を見つめたままだ。一切何の変化もない。
 薬の効果が現れるには、もっと時間がかかるのだろうか。それとも、素質とやらがないために、何の効果も現れないだけだろうか。
「……何ともねぇ、ぞ?」
 鮫口がつぶやいた。
「おい、おっさん、何も起きねぇぞ、どうなってんだ? おれには才能があるに決まってんだ。薬がちゃんと効くなら大丈夫に決まって、おっ? ……ぅお?  ……おう……お、お、お、おおおぉぉォォーー」
 腹の底から奇声をしぼりだし始めた。全身が細かく振るえている。
 いきなり異常を見せる鮫口に、恐怖のためかカオルもかすかに振るえだし、とりはだが立つ。それは、彩華も奈々美も景子でさえも同じだった。
 鮫口は全身をかきむしりながら、さらなる大声を上げた。
「あ、あ、あああぁぁァ、熱い、か、体が熱い────アチッ、アチッ、アチッ!」
 突然、熱湯でもぶっかけられたように、鮫口は激しく足踏みし始めた。
 誰もがおののくような光景。だが、ただ一人、冷静に見ている人物がいる。
「始まったようですね」
 青浦は、実験動物を観察するように、何の感情も表さずに言った。
 その直後、激しく熱がっていた鮫口の様子が急変する。まるで、今までの動転ぶりがうそのように動きが止まったかと思うと、顔一面に驚きを見せた。
「な、なんだ、これ? もうまったく熱くねぇ。けど、なんつーか、力がわいてくるような……」
「どうやら第一段階は通過したようですね。本当に素質があるのかも──」
「そうだ、力だ! 間違いねぇ、すげぇ力だ! 力がどんどんわいてきやがる!」
 何かに激しく興奮する鮫口は、すでに青浦の言葉など聞いてない。先ほど見せた驚きをうれしさに変え、遊びに熱中する子供のようにはしゃぎまくる。
「おおおぉぉォ、来い! 来い! 来い! もっと、来い! わきあがって来い! 谷風なんか目じゃねぇ力、わき上がってきやがれ!」
 鮫口はカオルの方に向き直った。そして、憎々しげにカオルをにらみながら言う。
「待ってろ、谷風。まだまだ力がわいてきてるんだ。もっとすげぇ力で、一瞬でぶち殺してやるからよ! ふはははは……は?」
 何の前ぶれもなく鮫口の動きが止まった。
 メデューサののろいを受けて石にされたかのように、微動だにしない鮫口。何が起こったのかと、カオルがあやしげな視線を向けた直後。
「ぐうあぁぁァァ!」
 鮫口は強烈な絶叫を上げると、自分の心臓をわしづかみにし、じゅうたんの上を転げ回りだした。
 この場の全員が叫びに貫かれてびくりと体を硬直させ、食い入るように見る。
 鮫口はさらなる叫びを上げると、今度は自分の頭をわしづかみにし、意味不明な奇声を上げつつ、頭をじゅうたんに叩きつけ始めた。何度も、何度も、何度 も。
 頭を床にぶつける鈍い音が不規則に生じ、奇声をより一層奇怪に変える。
 あまりに常軌を逸した行動に、カオルは完全に目をうばわれる。だが、全神経を集中して見ているはずの光景が、少しずつかすみだした。鮫口との戦いで強化人 間の力を使ったことによる意識障害が出始めたのだ。
 しまった、とカオルはあせりを浮かべたが、しかし、すぐに詩織にもらった薬のことを思いだし、ブレザーの内ポケットに手を忍ばせた。その時。
「奈々美!」
 景子の声が横から上がった。
 とっさに振り向くと、景子に倒れかかった奈々美が、すわった状態でなんとか抱きとめられていた。青ざめた顔の奈々美は意識がない。異常な光景を見ている うちに、気を失ってしまったのだろう。
 その間にも、カオルの意識はさらにうすらぐ。
 くらっ、とふらつき床に片ひざを突くが、なんとか倒れるのだけは防ぐと、思うように動かない手で内ポケットをまさぐり薬びんを探り当てた。それから、ほ とんど見えなくなりつつある視界を頼りにびんを開け、カプセル状の薬を手の平に数じょう取り出した。だが、鮫口のひときわ大きな奇声にどきりと驚き、びん ごと薬を落としてしまった。
 ガラスびんが床に落ちる音とともに、カプセルがぱらぱらと散乱した。
 今気を失ってはいけいないと、カオルは必死に意識をつなぎ止め、かすみぼやける視界に二重三重にぶれて映るカプセルを、四つんばいの姿勢でつかみ取ろう とした。
 だが、震える手でつかんだのは、何もない空間だった。
 それから、再度カプセルをつかもうとした時には、カオルの意識はほとんどなくなり、眼前に迫ったじゅうたんを最後に写した視界は真っ暗になった。
 ……今気を失ったら、何もかも終わりなのに……ちくしょう……
 大切な時に何もできないくやしさ。以前どこかで感じたような思いを最後に、完全に意識が消失しようとした時だった。
 ──しっかりして、カオル──
 かすかにそう聞こえた気がした。
 ほとんど感覚がなくなっていたため思い違いかもしれない。だが、その空耳のような言葉が意識をわずかなところでつなぎとめ、そして十秒ほどのち、なんと かカオルはふたたび目を開いた。
 しかし、視界に映ったのはじゅうたんではなかった。
 シャンデリアの逆光に浮かぶ女神のシルエット。
 いつの間にかあお向けになっているカオルが見ているのは、息がかかりそうなほど近くに顔を寄せた、りりしい女神の顔だった。
 何か既視感を感じさせるその女神は、もうろうとする意識が作り出した幻想とも思える美しさだ。神秘的な庭園から、カオルの危機を救いに現れたのだろう か。
 その姿に見とれ、くちびるに残っているやわらかい感触にも、口の中いっぱいに広がっている激しい甘さにも一切気を留めることはなかった。
 カオルが女神の顔をじっと見続けていると、ぬれた口もとがゆっくりと動き、聞きなれた声が届いた。
「今度は落とすんじゃわいわよ」
 言いつつカオルの手に握らせたのは、先ほどつかみ損ねたカプセルだった。
 一瞬にして現実に引き戻されたカオルは、すぐにカプセルを口に入れかみくだいた。すると、舌が引きつりそうなほどの甘さが、ふたたび口の中に広がりだ液 が出る。薬の効能のためか激しい甘さのためか、急速に意識が回復しだした。そこで、だ液を一気に飲み込むと、のどの奥まで甘さが広がり、わずか数秒にして 意識が正常に戻った。
 そして、カオルが見たのは、カオルを真剣に見つめている彩華だった。
「彩華……だったのか、ありがとう」
 自然と言葉が出たカオルへ、言葉を返したのは彩華ではなかった。

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