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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第十一章 死闘 3

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「そのまま寝てればいいものを」
 青浦だった。鮫口が抱えた頭を床に突いたまま動かなくなったのを、苦虫をかみつぶしたような目で見下ろしていた。
「それにしても、第二段階さえ通過できないとは……使えない少年ですね」
 大きな石を足の裏で転がすように、足で鮫口の上体を起こした。
 屈辱的な扱いをされた鮫口はゆっくりと青浦を見上げた。今の行為に激しい怒りを感じただろう鮫口が青浦を半殺しにするかとカオルは思った。しかし、鮫口 は何もやり返さない。死人のような目付きでじっと青浦を見ているだけだ。
 青浦は、どれいをしかりつけるかのように、厳しく言いつけた。
「おい! まだ、言葉ぐらいは理解できるだろ。君みたいな不良品でも、十分な運動能力は出せるはずです。さあ、行きなさい! 桜川の目の前で、最愛の息子 をなぶり殺して来な、ぶっ!」
 突然、青浦が横へふっとんだ。
 続く言葉の代りに激しく血を吹き出しながら、弾かれたように空中を飛んだ青浦は、きりもみしながらか べに激突すると、どさりと床に崩れ落ちた。
 赤い血の帯が縦に走った白い壁の横で、手足の関節を不自然に曲げて倒れふした青浦は、白目を向いたまま少しも動いていない。口から流れる血が、ゆっくり と血だまりを広げるだけだ。
 一瞬のことに、何が起きたかわる者は一人もいなかった。無残な姿と化した青浦を、ただただぼう然と見つめるだけだ。
 ホラー映画の一場面のような生々しい光景。その中で、丸めた背をカオルに向けて不気味に存在する鮫口は、片腕を真横へ突き出していた。振り払われたその 腕が青浦を弾き飛ばしたのだ。だが、それはカオルでさえ見えなかった。
 鮫口は突き出していた腕をだらりと下げた。そして、横の青浦から前方へ視線を戻すと、よみがえった死体を思わせるゆっくりとした動きで歩きだした。
 カオルは鮫口の向かう方向を見た。そこには、青浦とは別の人物が倒れていた。青浦が弾き飛ばされる際の衝撃を、その人物もまともに受け倒れたのだろう、 苦しそうにうめいている。
「母さん!」
 それが詩織であると気づいた瞬間、カオルは叫んでいた。
 詩織は声に反応し、わずかに顔を上げた。しかし、近づく鮫口を見たものの、かなりの痛手を受けているようで、立ち上がることができない。
 鮫口は、生肉を求める亡者のような表情を浮かべ、詩織のもとへ一歩一歩近づいて行く。
 その危険な状況の中、いち早く行動を起こしたのは、使用人の中久だ。
 玄関広間につながる廊下で待機していた使用人たちに向かって、「その少年をとらえよ!」と大声で命令した。すると、命令された数名の男たちはすぐ我に返 ると、急いで鮫口に走り寄り、手に持つ警棒を振り上げた。
 その直後、二人の使用人が同時に後方へ弾き飛ばされた。
 男が床に落ちる鈍い音と、警棒が床に落ちる固い音が広間に響く。
 またも振り払われた鮫口の腕によるものだ。だが、男たちには鮫口の動作は見えなかったのだろう。何事が起こったかわからないと言ったふうな顔で、床に倒 れ意識を失った二人の仲間を見ている。
 今の一撃で男たちは完全に機先を制された。でも、使用人としての高い志を持っているようで、無事な三人の男たちは意を決すると、詩織を守るように鮫口の 行く手に立ちふさがった。
「カオル様、今のうちに御友人方とあちらへお逃げ下さい」
 中久がカオルのもとへ駆け寄って言った。
 彩華の横で、カオルはひざを突いたまま成り行きに目をうばわれていたが、素早く立ち上がる。それを見た景子と家政婦の一人が、意識のない奈々美に両側か ら肩を貸して立ち上がらせた。そして、「こちらです」と別の家政婦が案内するのに従って、カオルたちは歩き出そうとした。だが、背後から上がった大きな悲 鳴に思わず振り返る。
 すると、鮫口が無事な腕一本で男をつり上げ、強引に振り回していた。烈風を生じて横殴りに叩きつけられる男の体に、立ちふさがる者は一瞬でなぎ倒され、 激突の衝撃で黒い何かが吹っ飛ぶ。その何かは壁にぶつかり硬い音を立てた後、すぐに床へ落ち再度硬い音を立てた。黒い革ぐつだった。それから鮫口は、空き 缶でも捨てるように、用済みになった男を無造作に放り投げた。男は放物線を描いてどさりと床に落ち、まったく動かない。
 男たちはみな床に倒れた。まだ意識のある者もいるが到底動けそうにない。
 鮫口はふたたび詩織の方へ歩きだした。
 それを見たカオルは、鮫口に向かってとっさに駆け出す。彩華や中久の制止の声など耳に届かない。
 今の鮫口は、もはや怪物にしか見えない。神社で戦ったマリーをはるかにこえる強さだろう。でもカオルはそんなことを考えてなどいない。目の前の詩織を助 けることしか頭にない。
「止めろ、鮫口!」
 叫びながら鮫口の前に立ちはだかった時だった。
 瞬間的に視界を横切った黒いかすみが爆発し、真っ暗な空間を回転しながら落下したと感じた直後、重く固い衝撃が背中全面に直撃した。
 何が起きたかわからないカオルは、消えそうな意識を必死につなぎ止める。すると、玄関広間の高い天井とシャンデリアがぼやけながらも見えてきた。どうや ら、床にあおむけに倒れているようだ。
 立ち上がろうと、もがくように体をよじる。全身に激しい痛みが生じ、腹の底からうめきがもれた。だが、それでもカオルは床に手を突き立ち上がる。木刀で 殴られたような強烈な痛みが両腕にずきりと走った。恐らく、鮫口が腕をなぎ払ったのをとっさに両腕で受けたのだろう。弾き飛ばされ床に叩きつけられ全身を 強打したものの、まだなんとか動けるのだから、これでも幸運と言うべきか。
 カオルは立ち上がった。それから、鮫口を見た。
 生きた人間の表情ではなかった。
 投薬の失敗で廃人と化した鮫口。そのうつろなひとみには、カオルのことが映っているのかさえわからない。しかし。
「……ニ……カゼ」
 鮫口の口がかすかに動いた。
 すると、生気のかけらさえなかった鮫口の顔に、わずかに感情が現れ始めた。その感情は少しずつ大きくなり、やがてはっきりと読み取れるようになる。
 鮫口 の顔に現れた感情。それは憎しみだった。
「タニ……カゼ……コロス…………ゼンブ、コロス……」
 心の底からしぼり出すようなその言葉には、カオルに対する激しい憎しみが込められているのか、発するごとに顔が険しく、みにくくゆがんでいく。
 今の鮫口には、まともな心が残っているとは思えない。だが、そんな状態になってまでもカオルへの憎しみは消えないのだろう。それほどまでに激しく強大な のだろう。たとえ逆うらみのような憎しみだとしても。

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