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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第十一章 死闘 7

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 鮫口が落ちる音に気づいたのか、彩華がカオルの背にうずめていた顔を上げた。
「カオル?」
 恐る恐る聞くような声に、カオルも恐る恐る振り向く。
 彩華は、うるんだひとみで不安気にカオルを見上げていた。ほおにはられたシップと、額ににじんだ血がとても痛々しい。いつもの彩華であれば、その傷さえ りりしく美しいのだが、今は見ていられないほど痛ましい。
 カオルの目をじっと見ていた彩華が、か弱い声で聞いた。
「もとに……戻ったの?」
「ああ」
 カオルは、自分が傷つけてしまった彩華を間近で見てしまい、それだけしか答えられなかった。
 だが、その一言に、彩華は心の底からうれしさを表すようにほほ笑んだ。
「よかった……本当によかった。もう、戻らないんじゃないかって、本気でそう思ったんだから!」
「ごめん」
「ううん、いいよ。もういいよ。カオルがもとに戻ったんだから」
 カオルは悔しそうに口と両目を強く閉じ、首を横に振った。
「違う……突き飛ばした。おれは、彩華を突き飛ばした……」
「ううん、いいの。カオルがもとに戻ってくれたから」
 同じように首を横に振りながら答えた彩華は、対照的に優しげな表情だった。
「でも、本当によかった。あのまま、その人を本当に殺しちゃうんじゃないかと思った。おかしくなったカオルは、すごい雰囲気だったから」
 カオルは無言だ。確かに、理性を失ったカオルは鮫口を殺そうとした。だが、それは、理性がないからだけではない。そうなる前から、鮫口のことを殺そうと 決意していたのだ。そして、固く決意したからこそ、自ら理性を破壊し力を暴走させたのだ。その殺意は今も変わらない。命をかけてまでした決意だ、そう簡単 に変わるはずもない。
 しかし、彩華はカオルの決意など知らない。持ち前の立ち直りの早さでもう元気を取り戻したのか、いつもの調子がだいぶ戻った声で言う。
「でも、もとに戻ってくれたから、もう平気ね。あー、でも、ほんっとに心配したわ。こんなに心配したのは生まれて初めてだわ。別にカオルが悪いってわけ じゃないんだけど。あー、なんか、無性に腹が立ってきた。カオル! あんた、一週間、わたしにデザートおごりなさい! 理由なんかどうでもいいわ。カオル がおごってくれれば気分が晴れると思うから。そう、あえて言うならそれが理由ね」
 先ほどの痛ましい表情の反動なのか、楽しさと不機嫌さを顔一面に同時に表した彩華は、いつも以上に理不尽なことをカオルに言いつける。
 だが、その理不尽さは、鮫口がぶつけてくる理不尽な暴力とは正反対で、カオルにはとても心地良い。うれしいような、楽しいような気持ちが込み上げてく る。そして、その気持ちはカオルだけが感じているものではなかった。カオルとの何気ないやり取りを、彩華もとても楽しく感じてくれていた。先ほど、彩華は それを必死に伝えてくれた。その気持ちが伝わったからこそ、カオルはこうして正気に戻れたのだ。
 ……おれは、自分自身を守りたかった。おれの大切な人、彩華や、正志や、母さんを守りたかった。そのために鮫口を殺そうと考えた。でも、それはつまり、 この心地良さを守りたかったってことじゃないのか? この楽しい時間を守りたかったってことじゃないのか? だが、彩華は、おれに鮫口を殺して欲しくない と言った。そんなことをしたら、この心地良さを、この楽しさを失ってしまうと。それが彩華にとって一番つらいことだと。だとしたら、答えは出ている。── 彩華にとって一番つらいことは、おれにとっても一番つらいことだから。
「ちょっとカオル、聞いてんの? あんたはわたしに一週間デザートおごるの。わかった? ……わからないなら二週間にするわよ」
「ああ、わかった。一週間な」
「よろしい。それでこそ、わたしのカオルだわ。でも、今日はなんだか、すごく疲れたわ。……カオル、ちょっと胸かしなさい」
 途中から少し気だるそうになった声は、ゆっくりとカオルの胸もとに近づいていく。
 羽毛を受け止めるように、カオルは両手でそっと彩華を抱きとめた。
 彩華は、カオルの胸に顔をうずめて静かにつぶやく。
「あったかい……」
 カオルの体温が彩華に伝わったようだ。
 そして、彩華の体温もカオルに伝わってくる。
 ほんのりとした温かさ。冷たさを増した夜風の中、その温かさはとても気持ち良い。
 少しして、彩華の重さがずっしりと腕に伝わってきた。小さな寝息も聞こえる。
 安らかな彩華の寝顔。
 彩華をのぞき込んだカオルは、見入ってしまった。それから、ふっと軽く笑みを浮かべると、腕を彩華の背中とひざの裏へ回し、そっと抱き上げた。
 すっかり静けさを取り戻した花畑の庭園。
 月の光が戦いの傷あとを浮かび上がらせている。
 だが、その退廃した光景は、以前として神秘的な空気に満ちていた。
 庭園にしかれた白い石畳の道の向こう、天界の建造物を思わせるような屋敷では、カオルの大切な人たちが無言でカオルと彩華を見守っていた。
 静かに眠る彩華を両手で抱き上げたまま、カオルはその大切な人たちのもとへ歩き出す。
 が、送り出した足で硬い何かをがきりと踏み、ふと足もとを見た。
 とても険しい表情になったカオルは、少しの間それをじっと見つめたあと、視線を彩華の寝顔に移した。
 すやすやと可愛い寝息を立てている。物音では起きそうにない深い眠りだ。
 カオルは一層険しい表情になり、ゆっくりと振り返った。
 自分たちが破壊した庭園の姿が視界に写り込む。
 その一画、白い花が咲く花畑の中で、倒れたままの鮫口はかすかな呼吸をしている。
 カオルは、その鮫口を冷たいひとみで見つめ続け、その後、さらに冷たいひとみで夜空に浮かぶ月を見上げた。そして、何かを決意するように静かにつぶやい た。
「大切なものを、もう絶対に傷つけさせはしない。何としても……」
 月の光には何の力もない。人の行動こそが力なのだ。
 カオルはそのことをよく知っていた。

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