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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第四章 紛失 1

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「大丈夫よ、痛くしないから。だから、そんなに緊張しないで」
「…………」
 強い意志で導くような、つやのある声。
 養護教諭の暖かい吐息を吸い込んだカオルは硬くなってしまった。そして恥ずかしさで顔を赤らめると、視線を泳がせて部屋の調度品を意味も無く確認してし まう。
 白いカーテンで間仕切りできるベットが二台、部屋の中央に置かれた円形の机と二つの椅子い す、薬品やファイルを収納している戸棚が二つ、執務用の机と椅子。
 白を基調とした清潔感のある空間。
 ごくありふれた保健室の風景だ。少し変わっている部分といえば、執務机の上の最新式ノートパソコンと、となりの大きな本棚にある大量の本ぐらいだろう。
「もっと気を楽にしていいわよ……あら? 血がでちゃってるわね。我慢しないで言ってくれればよかったのよ。あなたとわたし以外、誰もいないんだから」
「…………」
 かべぎわに置かれた横長のソファーにすわ らされたカオルは、目の前に顔を寄せる養護教諭に優しくほおをなでられている。間近で見ても、これほどきれいな女 性はそうそういないので、緊張で体が硬くなっても仕方ない。
「わたしのやり方はすごいわよ。こんなの初めてって、どの子も言うくらいにね」
「ふ、普通のやり方でお願いします」
「それじゃ、わたしのプライドが許さないわ。とにかく始めるわね。まず、あそこで顔を洗ってきて。ほおから血が出てるから少し痛いかもしれないけど、砂や 砂利をきれいに洗い流すのよ」
 養護教諭はそう言って、小さな白い陶器とうき製 の洗面台を指差した。
 やっとのことで動けるようになったカオルは、はい、と言って顔を洗いに行く。
 冷たい水で顔を洗っているうちに、養護教諭の色気から解放されたカオルは、冷静さを取り戻し、養護教諭のうわさを思い出す。
 美人でグラマーで男子に大人気の養護教諭がいるって、となりの席の子が言ってたなぁ。この人で間違いないな。なんて言ったかなぁ……藤宮先生だったか な。確かにこの調子なら男子にすごく人気なのはわかる。でも、何かひっかかる。この女性はどこか危険だって、そう直感する。
 顔を洗い終えたカオルが戻ってソファーにすわると、養護教諭の藤宮景子は、いかにも高級ブランドという感じの、作りの良さそうな赤いショルダーバッグか ら、手の平サイズの紙製の小箱を取り出した。それからバッグをソファーの上に置くと、腰をかがめてカオルの目の前に顔を寄せ、吐息を吹きかける。
「きれいに洗えてるわね。それじゃ……」
 間近にせまった豊満なふくらみに、カオルは目のやり場に困る。けれど、まったく無防備な景子は、ほおのすり傷をガーゼで丁寧にふくと、小箱から切符のよ うなものを取り出した。
 カオルは見慣れないものに視線をやる。
「何ですか、それは?」
「特製のバンソウコウよ」
「えっ? バンソウコウ?」
 カオルが驚いたのも仕方がない。景子が取り出したのは、台紙にはられた肌色のゴムテープのようなものだった。
「そうよ。バンソウコウよ。ハイドロコロイド素材を使ってシツジュンカンキョウを作る特殊なバンソウコウなの」
「……ハイドロコロイド? ……シツジュンカンキョウ?」
「そう。ハイドロコロイドと湿潤環境。何も手当てしなかったり、普通のバンソウコウを使うと、血が乾燥して固まって、カサブタができるでしょ? でも、あ れって実は治りが遅いのよ。傷口から出る血に傷を直す成分がふくまれているんだけど、ドロドロの状態の方が細胞の再生活動が活発に行われるの。その状態を 湿潤環境って言って、湿潤環境を保つのに最適なのがハイドロコロイド素材のバンソウコウなの。このくらいの傷なら一日でうす皮ができるし、治ったあとも一 切あとが残らないわよ。よかったわね、顔に傷が残らなくて」
 目からうろこが落ちる話に納得顔のカオルは、先ほど直感した危険など忘れて、景子がバンソウコウを台紙からはがすのを見ている。が、はがすのに夢中なの か、景子は持っていた小箱を突然逆さまにしてしまった。すると、飛び出した数枚のバンソウコウが空中に散乱した。
 直後、バンソウコウが次々に姿を消した。
 二つの影が残像を残しながら交差した時、パシシシシと立て続けにかすれるような音を出したバンソウコウは、次の瞬間には空中から消え失せていた。
 この時、バンソウコウを消失させた二つの影を、景子が鋭い視線でとらえていたことにカオルは気がつかなかった。
「先生、気をつけて下さい。特製のバンソウコウが床に落ちて汚れちゃいますよ」
「……そうね。わたしったらそそっかしいわね」
 カオルは景子の胸の前へ左右の手を出してそっと開いた。その手には五枚ずつバンソウコウがのっている。空中に舞ったバンソウコウを、カオルの左右の手が 次々につかみ取ったからだ。
 カオルは景子の手から小箱を取ると、バンソウコウを入れてソファーの上に置いた。
 景子はそれを見ながら、手に持っていたバンソウコウを台紙からはがし終えると、カオルのほおへ手を当て、今までよりも一段と色気のある表情で言った。
「そういえば、まだあなたの名前を聞いてなかったわね。わたしは養護教諭の藤宮景子。あなたは?」
 傷のことを追及される弱みがあるカオルは、名前を名乗るのに一瞬抵抗を感じたが、自然な景子のリードに思わず従ってしまう。
「……一年三組の谷風香です」
「谷風香……すてきな名前ね。谷風君は特別に、わたしのことを景子先生って呼んでいいわよ」

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