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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第五章 狂言 7

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 カオルは胸をうずく痛みを必死にこらえながら、景子たちを険しい視線でけん制する。しかし、カオルの迷いを感じ取ったのか、男たちがじりじりと間合いを つめてくる。カオルは押されるように少しずつ後退しだした。
 まずい、打つ手がない。このまま下がり続けても出窓にぶつかるだけだ。ん、出窓?
 カオルの脳裏に先ほど見たある光景が浮かんだ。部屋に入った際に見た、出窓から見える赤い満月と風で葉をゆらす大木だ。そして、その光景から一つの突拍 子もない考えに思いいたった。
 できるのか、そんなことが? 不可能ってわけではないと思うが……。いや、やるしかない。他に方法なんてない。そう、条件は全てそろってるんだ。あとは やり通す意志と集中力の問題だ。自分を信じろ、ゾーンとやらの使い手なんだろ!
 カオルは覚悟を決めると、深い息を吐いて景子のひとみをじっと見つめた。すると、カオルの心の変化を読み取ったのか、景子が口を開いた。
「まだあきらめてないようね。今度はどんなことをしてくれるのか楽しみだわ」
「特に何もしませんよ。景子先生のムチごとき、何かする必要なんてないですから」
「ふふふ、あんなに痛そうにしてたのにね」
「痛そうにしてた? 思い違いですよ。ほこらしげに自慢してたムチが、予想以上にしょぼかったんで驚いただけです。ロングブルウィップ? ふっ……猫 じゃらしの 間違いじゃないんですか? 次買う時はよく確認するといいですよ」
 カオルの挑発に景子はぴくりとまゆを寄せた。
「言ってくれるわね。減らず口ばかり叩いてると痛い目にあうってこと、教える必要がありそうね」
 景子はわずかに腰を沈めた。
 ──かかった!
 カオルは表情には一切出さず、心の中でよろこんだ。カオルのねらい通り、景子にしかけさせることができそうだからだ。
 だが、本当の勝負はこれからだ。カオルは景子の動きに全ての神経を集中させる。自分から攻めることや、景子の横にいる男たちのことは一切考えず、ただ景 子にだけ集中した。
 すると、時間の流れがゆるやかになっていくかのように、視界に映るものの動きが少しずつ遅くなっていく。景子が重心を移動させる細かな動き、視線の移 動、息づかい、あらゆる動きが手に取るように見えてくる。
 しかし、景子もカオルの集中力が増してきたのを感じ取ったのか、なかなかしかけてこない。ムチを持つ右手をリズミカルに動かす動作をくり返しては、鋭い 目付きでカオルの反応をうかがっている。ムチを振るう初動をかくすと同時に、カオルの出方を見ているのだ。
 その景子が同じように右手を動かした時だった。
 ──来る!
 この動作で打ってくるとカオルは確信した。
 景子のその動きは完ぺきで、初動はリズムの中に完全にかくされていた。だが、景子のひとみが、わずかに大きくなるのをカオルはとらえたのだ。
 瞬間、カオルの集中力は爆発的に高まった。
 すると、視界全体が暗くなり、景子の動きがスローモーションさながらにゆっくりに見える。一点を見定める景子の目。美しくしなる景子の右手。くり出され る黒いムチ。それらからカオルは瞬時にムチの軌道を先読みすると、奈々美の手を放し、剣を空中へ投げ出して、両手をムチの軌道へ送り出した。
 時間の流れと色の明度が変化した、異次元とも思える白黒の空間。空気を切り裂き飛来するムチと何かを求めるようなカオルの手。それら二つが交錯し、ムチ が手の中に飛び込んだ瞬間、カオルは両手でムチをつかみ思いきり引っぱった。すると、スナップを加えようと力いっぱい引き戻した景子の手からムチがすっぽ 抜け、一直線にカオルの方へ飛んで来て、その左手に見事に収まった。
 一瞬の出来事に、景子は何が起きたかすぐにはわからなかったようで、カオルの左手のムチに気づいたのは、回転しながら落下する剣をカオルが右手でつかん だ時だった。
 カオルはにやりと笑みをもらした。
「こんなことって……」
 景子は驚きで目を見開いた。それはカオルが初めて見る表情だ。
 ムチを振るうまさに一瞬の間に、その自慢のムチをうばわれるなど思ってもいなかったのだろう。両わきの男たちにいたっては、未だに何が起きたのか理解し てないような表情だ。
 さらに、カオルは次の動作も早かった。
 驚きで硬直している景子たちから視線を外さずに素早く出窓まで後退すると、窓を大きく開け放った。夜の冷気が部屋の中に広がる。
「た、谷風君、何をする気。ここは三階なのよ!」
 景子はまたしても驚きを見せた。だが、それも当然だ。景子の屋敷の三階は普通の家の三階よりずっと高い。ここから飛び降りれば骨折はまぬがれないだろ う。しかし、カオルは景子の言葉などには耳をかさず、窓の外に向かって身構えると、勢いよくムチを振るった。
 景子の洗練されたムチさばきさながらに、カオルのなめらかな手つきで振るわれたムチは、うなりをあげて外へ飛び出すと、正面の大木の枝にからみついた。
 カオルは剣を置き、出窓の枠に足をのせると、そばを離れず祈るように見守っていた奈々美の腰に手を回しながら言う。
「奈々美さん、しっかりつかまって!」
「はい!」
 奈々美はすぐにカオルの思惑を理解したようで、元気の良い返事をするとカオルの首に両手を回した。首にふれた奈々美の腕はとてもなめらかで、肩に当たる 奈々美の胸はとてもやわらかい。
 カオルは腕に力を入れて奈々美を抱き上げると、大木の枝にかかったムチを張りながら窓枠に乗った。
「ま、待ちなさい!」
 景子の呼び声が合図となり、カオルは春の夜空に飛び出した。
 赤い満月が照らす夜空の闇を、カオルと奈々美は振り子となって駆け抜ける。青白く発光する公園の夜景が視界を流れ、桜の香をふくむ冷たい風が、さわやか な風切り音を立ててほおをかすめる。奈々美のぬくもりを感じながらその光景を見たカオルは、たくさんの黒い感情が渦巻いていた心が清く澄み渡るのを感じ た。窮地きゅうちから脱出するための、ほんの 一瞬の空中遊泳は、永遠の記憶に残るような美しさだった。
 カオルは大地に降り立った。
 ムチを握っていた腕も、着地した両足も何の痛みもない。子供のころ似たような遊びで得た経験が役に立った。一緒に着地した奈々美も何ともないようで、よ ろこびと驚きを顔いっぱいに表している。
 カオルは屋敷を振り返って見上げた。ちょうど窓のところに駆けつけた景子と三人の男が、言葉を失ったような顔でカオルたちを見たところだった。景子は高 みから見下ろす体勢だが、高みから見下ろす態度は完全に消えていた。
 カオルはその景子と目が合った。すぐに右手の指先をこめかみに当てて言った。
「おやすみなさい、景子先生」
 そして、今年一番のさわやかな笑顔を景子に送ると、奈々美の手を引いて夜の闇に消えていった。

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