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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第六章 罠 7

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「どうしたぁ! もっとしっかり走れよ! 可愛い彼女がどうなっても知らねぇぞ!」
 走る速度が落ち始めたカオルへ、スクーターの後ろに乗った男子が大声を出した。
 くっ! 彩華、すまない、おれのせいで巻き込んじまって。あの時、おれが指輪にばかり気を取られてなければ、鮫口たちのことを忘れてなければ、こんなこ とにはならなかったのに ……ちくしょう!
 体中の苦痛に顔をゆがめながら走るカオルだが、自分のせいで彩華もなんらかの苦痛を受けていると思うと、しかも、それはカオルが用心していれば防げたか もしれないことかと思うと、体の痛みなど気にならなくなるほどの強烈な痛みが心に走る。
 心にこれほどの痛みを感じたのは、例のあの日以来だった。体育館裏へ鮫口たちに誘い出され暴行を受けたあの日。仲良くなった水沢さやかや緑川玲子の前 で、みじめにいじめられると考えてしまった時以来の強烈な痛みだった。
 心の痛みだけでなく、鮫口たちに誘い出されるという状況もまた、あの時に似ている。自然と結果も似てくるのかもしれない。あの日、いじめに抵抗する気持 ちがくじかれ、大切な何かを失ったように、今回もまた、大切な何かを失うのかもしれない。
 瞬間、カオルの心にさらに強烈な痛みが走った。それは、さびた包丁で何度も何度も心臓をえぐられるような強烈な痛みで、かつてこれほどの痛みを感じたこ となどない。
 疲労のあまり視界がぼんやりとしていたカオルだったが、その心の痛みで手負いのけもののような顔となり、険しい視線でスクーターをとらえ直す。
 スクーターは、さっき通ったのと同じような代わり映えしない裏通りを、カオルをあおるように蛇行している。どこにでもありそうなごく普通の裏通りなので そう見えるのかもしれない。
 そんなつまらない道を蛇行していたスクーターは、小さな十字路にさしかかると、カオルの視界から逃げるように、蛇行の勢いのまま右に曲がった。
 遅れて十字路にさしかかったカオルも、最短経路を取って建物すれすれを右に曲る。と、そこで何かにぶりかりそうになったカオルは、身をよじってそれをか わしざま、素早く何か確認した。
 ──えっ!
 目に飛び込んだものは、思いもよらないものだった。
 カオルはそれが何かすぐにわかったが、なぜここにあるのか理解できない。そう、それはここにあるはずのないものだ。そのため、今の状況が理解できない。
 驚き顔になったカオルは、スクーターを追わなければならないにも関わらず、立ち止まってしまった。
 カオルの視線の先には、裏通りにはありふれたものがあった。ラーメン屋の立看板だ。そこに書かれている文字もありふれており、『天下一ラーメン』と書か れている。だが、それはこの世に一つのものだ。
 ──先ほどカオルがぶつかった看板だ。
 ぶつかった時のずれたままの状態で立っているのが、カオルの見間違いではないことの証だ。まわりの景色が代わり映えしない場所を走っていたのではなく、 本当に同じ場所を走っていたのだ。
 カオルは今の状況の持つ意味を考えた。すぐに一つの考えが浮かぶ。
 非常なまでに驚いたカオルの顔には、恐怖がありありと現れている。手足が細かく振るえているのは、疲れのためではなく、その考えへの恐怖と、相手への怒 りのためだ。
 奥歯を強くかみしめた口から、その考えが言葉となってもれ出した。
「時間かせぎしてやがる……」
 カオルは、何の罪もない看板を憎しみの目でにらみながら思う。
 スクーターでおれを引き回すのは、時間かせぎのためだ。その間に彩華は──
「もうへばったのか、こらァ! さっさと付いて来いやぁ!」
 道の先でスクーターを止めて見ていた男子が挑発の怒鳴りを発した。カオルが看板の前で立ち止まり、じっと動かないのにしびれを切らしたのだろう。だが、 その男子が言い終わる前に、カオルは打ち出されたように走り出していた。
 爆発的に広がった怒りが全身を動かし、前傾姿勢で異常な急加速を見せるカオル。そのすさまじい加速で一気に最高速に達すると、まるで抜き放たれた居合の やいばのごとく、路面を切るように疾走する。
 数十メートル以上ある距離を一気につめるカオルの視界には、まわりの景色など流れる線としか映らず、中心に二人の男子の顔を焼けつくほど強烈に映すのみ だ。
 止まったスクーターに乗ったまま、二人の男子はカオルの走りを目の当たりにし、あわてたように動きだした。
 前の男子が急いで前方へ向き直り、後ろの男子を確認もせずに全開までアクセルをひねると、けたたましい音を発したスクーターが前輪を浮かせ気味に急発進 する。だが、後ろの男子は振り落とされそうになり、たまらず地面に足を突くと、前の男子にしがみ付いた状態のまま、スクーターに引っ張られて路上を走り出 す。それでも、なんとか体勢を建て直し、必死にスクーターに飛び乗った後ろの男子は、急いで後ろを振り返った。すると、鬼の形相のカオルがぐんぐん迫って きており、あせりと恐怖で顔を引きつらせる。
 カオルは、そんな二人のあわてふためく様子をひとみの奥にとらえた。
 いつも! いつも! いつも! お前たちは汚いやり方ばかりだ! 中学の時もそうだし、高校になってからもそうだ! あげく、彩華や、正志まで巻き込 んで苦しめる。絶対に許さねぇ!
 激情で冷静さを失っているカオルには、鮫口と八岡にはなんの関係もないことや、正志は彼自身の意志で八岡とのけんかに関わったことなどには考えが及ばな い。自分に危害を加える人たちを混同してしまっていて、そいつらが卑怯な手段で大切な友人にまで危害を加えてきたとしか認識していない。
 全力疾走するカオルは、まだ加速中のスクーターとの距離をどんどんつめた。そして、ついに手が届きそうなところまで迫ると、後ろに乗る男子の背中に向け て手を伸ばす。今の速度でスクーターから引きずり下ろせば大怪我させるなどとは考えもせず、目の前の男子をつかまえて彩華の居場所を聞き出そうと、怒りの ままに行動している。
 地獄の責め苦を受ける仲間へと、引き込もうとする亡者のようなカオルの手が、つかまるまいと男子が必死に反らした背中にふれ、学生服をつかんだ。そし て、あせりと恐怖に加え驚きまで顔に浮かべた男子を、カオルは力の限りひっぱった。
 その男子は後頭部から道路に落ちて頭を強打したあと、全力疾走の速度が落ちるまで全身を路面に激しく打ちつけられ、こすられながら転がり続けただろう、 もし落とされていれば。しかし、カオルにとって幸か不幸か、その男子は引きずり落とされはしなかった。前でスクーターを運転している男子に懸命にしがみ付 いているため、前傾になり限界まで手を伸ばしたカオルの不安定な姿勢では、つかんだ相手を落とすほどの力が入らないのだ。
 それでもカオルは、相手をつかまえようと引っ張り続ける。一方、スクーターを運転している男子は、アクセルを全開にふかし続ける。そのため、今度はカオ ルが、スクーターに引っ張られる格好で路上を走ることとなった。
 全力疾走を続けるカオルを、スクーターはさらなる速さへと強引に導いた。
 けれど、ほとんど体力の限界であったカオルには、到底たえられるものではない。すぐに体中が強烈な苦痛を訴える。右左のわき腹から同時にすさまじい痛み が生じ、胸が破裂しそうな感覚におちいる。心臓が爆発しそうなほど激しく打ち、痛みのような疲労を感じる手足に血を送る。だが、全力疾走で呼吸を止めてい るため、血の中に肝心の酸素はほとんどない。カオルは苦しさのあまり、過酷な拷問にたえる捕りょのような険しい顔になった。
 だが、それでもカオルは手を放さない。大切な友人である彩華を助けたい執念で、男子をつかみ走り続る。
 そして、その結果はすぐに出た。
 養護教諭の藤宮景子によると、カオルが生命の危機に直面するとゾーンに入るとのことだが、今の状況でそんな能力は意味がないのかもしれない。カオルの執 念が体力の限界をこえることはなかった。
 学生服をつかんでいたカオルの手が、こすれるような音を残してあっけなく外れた。
 直後、いましめを解かれたスクーターはどんどん速度を上げ、けん引を失ったカオルはどんどん速度を下げ、その間隔はあっという間に広がった。
 カオルは、かすれた視界で遠ざかるスクーターを見ながら、また一つ大切なものを失ったような気持ちになり、心に空虚なものが広がった。だが、それでもカ オルは走り続ける。すでに体力が限界であることも、絶対にスクーターに追いつけないこともわかっているが、彩華を助けるための望みをかけて、ほとんど歩い ているに近い、走りとは呼べないような走りを続ける。
 二人の男子は道の真ん中でスクーターを止めると、そんなカオルを見て会話する。
「おいシンゴ、ちゃんとアクセル握っとけよ。またフェイクかもしれねぇぞ」
「ああ、もう同じ手はくわねーよ。てか、もう大丈夫だろ。あの顔見ろよ。あれがフェイクだったら、おれ人間不審なるわ」
 前に乗った男子はカオルの方へあごをしゃくった。
 すると、後ろの男子は目をこらしてカオルの顔を見た。
 道半ばで体力の限界が来てしまったマラソン選手さながら、苦痛と疲労で極限までゆがみきった表情で、カオルは走り続けていた。
「……ぶっ、ぶははははは、なんだその顔は! コントかよ!」
 大げさに吹き出した後ろの男子は、腹を抱えながらカオルの顔を指差した。
 対称的に、前の男子は冷静さを保ったまま、カオルを小馬鹿にするような冷笑をした。
「ふっ、間違いなくリアルだろ」
「ほんとにリアルかよ! リアルであんな顔するやつ初めてだわ!」
「ああ、おれもあんな顔するやつは初めて見たぜ。サテンですかしてた時とは大違いだな。てか、こっちがほんとの顔なんじゃねぇの?」
 後ろの男子はまたしても盛大に吹き出したあと、大声でカオルを怒鳴りつけた。
「おい! 何バテてんだ! しっかり走れやコラぁ! 彼女がどうなっても知らねぇぞ!」
 だが、カオルは苦しそうな顔をさらに苦しげにゆがめただけで、あとはただ走り続けるだけだった。
 その後、誰が見てもまともに走れそうにないカオルのことを、その二人は別の場所へ誘い出した。どやしたり、からかったりと言葉の限りいたぶっては、その 表情を見てげらげらと笑いながら。
 カオルの運命を暗示するかのように、うす暗い雲の影で太陽はゆっくりと沈み始めていた。

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