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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第七章 激情 4

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 カオルはくちびるをかみしめると、彩華と男子がにらみ合うのを見た。
 二人の間をかわいた風が吹き抜けるのが見えた。だが、危険な緊張を吹き払うことはできない。
 そんな時、その緊張した空気には似つかわしくないニヤけ声が 上 がった。
「おいおい、とんだじゃじゃ馬だな」
 内寺健太だ。この男は感覚が狂っているのか、先ほどからの緊張を一切感じていないようで、一人で楽しそうにしゃべりだした。
「今付き合ってる女はもうあきたし、こいつ、顔は激マブだから、おれの彼女にしてやろうかと思ってたんだが……どんだけ顔が良くても中身がこれじゃあ なぁ……」
 彩華はゆっくりと内寺に視線を移した。その怒りの表情には憎しみまで加わっており、内寺が激マブと言った美しい顔はゆがみきっていた。
「彼女に……してやる? バカも休み休み言いなさいよ! 誰があんたみたいな、みにくい男の彼女になんかなるもんですか! ていうか、あんた鏡みたことな い んでしょ。今から駅のトイレに行って鏡でも見てみたら? 便器の中の汚物よりもみにくいものが映るから」
「……何……だと……」
 内寺がぴくりと反応した。今まで何を言われても余裕の笑みを崩さなかった顔から、笑みは完全に消えている。
 カオルは内寺のことをよく知っている。切れると何をするかわからない危険なやつであり、内寺が切れる一番のポイントは外見をけなされることだと。そし て、今、内寺は外見をけなされ、その憎悪に満ちた横顔を見たカオルは、内寺が切れる寸前だと直感した。
 内寺がゆっくりと彩華の方へ歩き出した。
 ──まずい!
 激しい悪寒がカオルを襲った。
 直後、カオルはとっさに立ち上がろうとした。だが、体中に走った強烈な痛みで顔がゆがみ、動きが止まってしまった。まだ疲労が回復してない上、厳しくい たぶられた体では、立ち上がることさえままならないのだ。
 しかし、それでもカオルは根性を振りしぼる。今立ち上がらなければ彩華が危ない。カオルのために、これほどまでに激しく怒り、激しく憎んでくれた彩華 が、内寺の狂気を受けてしまう。ただ、そのことだけを考え、痛みにたえる。
 すると、カオルの全身が猛火のように熱くなりだし、力がみなぎり始める。
 カオルは片足を立てた。かすかに振るえている。それを両手でおさえた。そして、手と足にありったけの力を込めると、全身を駆けめぐる痛みを歯を食いし ばってこらえ、一気に立ち上がった。
 だが、カオルの行動は一歩遅かった。怒りと憎しみが極限に達しているだろう彩華の近くまで、内寺は来ていた。
 彩華、やめろ! もう何も言うな!
 カオルは、痛みをともなうぐらい強く願った。
 しかし、彩華は、さらに近づく内寺にありったけの皮肉のこもった声で言った。
「何? トイレの鏡、見に行く気になったの? でも、残念。鏡に映るのは、みにくい見た目だけ。もっとみにくい心までは映らないわ」
 直後、内寺は狂った犯罪者のような表情を一瞬見せると、その狂気を解き放った。
 それは、カオルにはとてもゆっくりと見えた。
 その鈍い音以外、全ての音が完全に消失していた。
 高架を走る車の音も、川を流れる水の音も、草をゆらす風の音も。
 ただ、その鈍い音だけが、真っ白になったカオルの頭に響き渡り、目の前で見た光景が現実であると告げていた。
 誰もいない真横を向いていた彩華が、内寺の方へゆっくりと顔を向き直した。その彩華の顔からは全ての感情が消えていた。あれだけ激しかった怒りも、憎し みも。
「あっ? わりぃ、わりぃ、いつものクセで、ついな」
 内寺は、憎悪に満ちた先ほどの顔がうそのように、いつの間にやら余裕の笑みが戻っていた。そのニヤけた顔で、やたら演技くさく心配そうな表情をすると、 彩華の顔をのぞき込んだ。
 その彩華の顔、くちびるのはしから、赤いものがつうっと流れ出て、そのままあごを伝って地面に落ちた。
「ありゃりゃ、血が出ちゃってるし。マブイ顔が台無しだねぇ。まあ、しつけのなってない女は殴るの一番だからな。しょうがねーわな。これにこりたら、えら そうに男に盾突かねーことだ」
 内寺が狂気を解き放ち、カオルが見てしまった光景。それは、内寺が彩華の顔を殴りつける光景だった。
 カオルはその光景を鮮明に見てしまった。
 二人の男子に腕をおさえられた彩華が、ほおを内寺の拳で勢いよく打たれる様を。
 駆け出そうとした体勢で固まったままのカオルは、現実の彩華を見た。
 また一滴、赤いしずくが地面に落ちた。
 見慣れているカオルでさえ、見とれてしまうことがあるくらい整った彩華の顔。その口もとから流れる血は、自分が流す血とは別物かと思うほどに痛々しい。
 その血を見ている内に、カオルは全身が激しく振るえ出してきた。ぞくぞくと寒気が走る背中を冷たい汗が幾筋も流れ落ちる。
 なぜだ? なんでこんなことになったんだ? どうして、彩華が……おれのために、あれだけ怒ってくれた彩華が……。おれが悪いのか? おれがいじめら れっ子だったからか? おれがもっと用心してれば良かったのか? もっと早く、立ち上がっていれば良かったのか? それとも、指輪を失くした時か? あの 時もっと──
 カオルの頭の中を、あらゆる思考が嵐のごとく吹き荒れ、様々な感情が洪水のごとく押し寄せる。そして、その押し寄せた感情である、怒りが、悔しさが、悲 しみが、カオルの心の中で熱せられ、激しく沸とうし、心を破裂させるほどにふくれ上がった。
 激しくわき立つ感情が、理性による制御の限界に達しようとしているカオル。そのカオルの前で、先ほど彩華と怒鳴り合っていた学生服の一人が、さも感心し たような声で話しだした。
「にしても、マジで効果てきめんだな。一発で、ちょー良い子になっちまったじゃねーか。おれも今度からバカ女は殴ることにするわ」
「だろ! バカ女は殴るのが一番いいんだって。一発でわからない大バカ女も、殴り続けりゃ必ず言うこと聞くからよ」
 内寺が得意気に言うと、またも男子の笑い声が重なった。だが、同時に一切の感情をふくまない声が冷たく響いた。
「……あんたたち完全に終わってるわ」
「ぁあァ?」
 彩華の声だった。怒りにも憎しみにも値しない相手だと見たのか、その冷えきった声からは軽蔑の思いしか感じられなかった。
「……救いようがないわ。あんたたちのようなクズは、ここみたいに日の当たらない場所で、一生寄りそい合ってなさい」
 内寺は、先ほど一瞬見せた、狂った犯罪者のような表情に瞬時に切りかわった。そして、完全に裏返った声で、狂ったように叫び散らす。
「ぁああぁァァ! 調子こくんじゃねェっつってんだよ! クソアマが! んなに殴られてェなら、死ぬまで殴ってやるよォ!」
 言いながら、左手で彩華の首を思い切りつかみ上げると、彩華は苦しげに顔をゆがめ、血のしずくが混じった息を吐いた。
 それを見た瞬間、カオルの心が破裂した。
 心を満たしていたあらゆる感情が、熱い激流となって全身を駆けめぐる。そのほとばしる感情で、全ての血がたぎり暴れて、体中が焼けついたと感じた直後、 視界が白黒に落ちたカオルは弾かれたように地を駆けていた。
 モノクロの世界で、ほとんど止まった時間の中を、けもののごとく前傾になり駆け抜ける。視界に映る景色は白黒の流星となって後方に降りそそ ぎ、ひとみの奥に映った獲物は一瞬で目の前に現れる。
 獲物ののどもとに肉食獣が食らい付くかのごとく、狂人のような表情を浮かべたままの内寺の首に、地面から飛びかかるようにつかみかかったカオルは、勢い にまかせて内寺を空中につり上げると、半円を描くように振り回してそのまま地面に叩きつけた。すると、一撃で白目になった内寺が、大量の空気と一緒によだ れを空中に吐き出した。
 さらにカオルは、その吹き上がったよだれが頂点に達する前に、彩華の腕をつかむ私服の二人に襲いかかった。
 その一人には、内寺が突然舞い上がり、急落下したようにしか見えなかったのか、驚いて目を皿のようにしたその顔面をカオルは拳で強烈に打ち抜き、そいつ が回転しながら後ろに吹っ飛んでいる間に、もう一人のおびえ顔を真下から拳で打ち上げた。すると、後ろに吹っ飛んだ男子は二回転して顔面から地面に落ち、 あごを打ち上げられた男子は砕けた前歯とともに浮き上がったあと、背中から地面に落ちた。
「谷風エェェーー!」
 とどろく雷鳴のような叫びがうす暗い空に突き抜けた。
 鮫口龍二だ。学生服の二人が驚きと恐怖を顔にはりつけた後ろで、同じく恐怖をかすかに浮かべていた鮫口が、その恐怖を振り払うかのように腹の底から叫ん だ声だ。
 けんかの強さに絶対の自信がある鮫口には、カオルの戦いぶりに恐怖するなど、たえられない屈辱だったのだろうか。叫び終わるや否や、敵にき ばをむくとらの ような表情でカオルに突進すると、激しい怒りを込めたような拳で殴りかかった。
 直後、くの字に折れ曲がった鮫口が後方に吹っ飛んだ。
 そして、受身も取れずに背中から倒れると、腹をおさえてごろごろと転がりもだえ苦しみだす。
 一瞬にして鮫口の懐に入ったカオルが、拳で腹を撃ち抜いたのだ。
 けんかの強さでは右に出る者がいない鮫口が、一撃で沈み苦しむその光景は壮絶さを極めた。
 カオルはすぐに、学生服の一人を野獣のごとく険しい目付きでとらえた。
 鮫口が倒される光景に目をうばわれていたその男子だが、カオルの視線に気づいた瞬間、あわてて後ろに振り向き走り出した。だが、瞬時に全速まで加速した カオルは、逃げる男子の背中に飛びかかりざま、後ろえりをつかんで引き倒した。すると、学生服の金ボタンが空中に弾け飛ぶ中、服にしめられたのどから、ぐ うぇっと息を吐いたその男子は、背中から地面に落ちて、全身を激しく打ちつけられながら転がった。
 そして。
 残った最後の一人、未だ驚きと恐怖を顔にはり付けたまま、ぼう然と立ち尽くす学生服の男子。その男子の方へ速度を落とさず急旋回したカオルは、とっさに 顔をかばった男子のガラ空きの腹を、突進の勢いのままに拳で撃ち抜いた。すると、腹に拳がめり込むほどの一撃をくらったその男子は、鮫口同様くの字になっ て後方へ吹っ飛び地面に倒れると、腹を抱えたまま動けなくなった。
 カオルの戦いぶりはまともではなかった。
 それらは全て、十秒たらずの間の出来事だった。
 そのわずかな時間でカオルは六人の男子を倒し、草原に立っているのはカオルと彩華だけになっていた。

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