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暗闇のカオルと
閉ざされた記憶
第八章 追跡者 10
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恐怖がはり付いて離れないカオルは、かたかたと振るえながら鮫口を見ていた。
この恐怖は、つい最近にも感じたことがあった。そう、あれは一昨日だ。河川敷で鮫口とけんかをしたあとだ。あの時、鮫口が立ち去る際に感じた恐怖と同じ
なのだ。一見するとカオルが勝ったけんかなのに、カオルは正体不明の恐怖を感じた。だが、今なら恐怖の正体がわかる。絶対に負けを認めず、相手をつぶすた
めなら、あらゆる手段を使い、あらゆるものを犠牲にする──自分の人生さえも。あの時の恐怖はそういう人間に対する恐怖だったのだ。
カオルは視界が少しずつかすんでできた。
恐怖のせいで、視覚に変調を来したのだろうか。その視界はさらにぼやけ、暗くなり、頭までくらくらしてきた。
だが、その頭の感じでカオルはわかった。これは、めまいだと。時々襲われることのある、あのめまいだと。今回はそれほど重い症状ではないが、しかし、こ
の状況でこのめまいは文字通り命取りだ。
──ま、まずい。今、倒れるわけにはいかない。
そう思ったカオルは両手をひざにつき、倒れるのはなんとか踏み留まる。
しかし、鮫口はカオルの不調に気づいたようだ。危険な笑みを浮かべながら、ズボンのポケットに片手をしのばせると、何かを取り出した。
鮫口は手の平に収まっているそれを、手慣れた動作で片手だけで変形させ、銀色に光る鋭利な刃をあらわにした。
バタフライナイフ。
二つに分割されたえの部分で、刃をはさみ込んで収納するナイフ。
鮫口が取り出したのはそれだった。
先ほど、絶対に殺すなと言っていた人物がいたが、鮫口にはそんなことどうでもいいのかもしれない。危険な笑みを、怒りと憎しみでさらに険しくみにくくゆ
がめた鮫口は、カオルに向かって勢いよく走り出し、大声で叫んだ。
「こないだの礼だ──死ねよ、谷風ェ!」
その鋭い視線と叫びに貫かれ、カオルは全身の血が凍りつく感覚におちいった。
だが、立っているのがやっとで、鮫口がナイフを構えて突っ込んでくるのを、恐怖の目で見つめることしかできない。
そして。
ほとんど見えない視界に、殺意を放った鮫口と、突然迫った別の影が映った瞬間、胸に衝撃と鈍痛が突き抜けた。
その直後、飛び散る血を最後に映した視界は真っ暗に消失し、見えなくなった地平線がぐるりと回転したかと思ったカオルは、全身に強烈な衝撃を受け、まっ
たく動けなくなった。
「カオル!」
女性の悲痛な叫びが遠くに聞こえ、駆ける足音が近づいて来る。彩華だろうか。
「カオル! しっかりして!」
やはり、彩華だ。どうやら今回のめまいは回復が早いようで、戻り始めた
聴覚が、
その声は彩華のものだと感じ取り、直り始めた平衡感覚が、今自分は倒れていると告げている。
視界も戻り始めた。
カオルはそのぼやけている視界を頼りに、上体をゆっくりと起こした。すると、鮫口が血の付いたナイフを突き出したまま、突っ立っているのが見えた。
カオルは、今さっき衝撃を受けた胸に手を当てた。だが、なぜか痛みは感じられない。
すぐに自分の目で胸を見た。やはり血は付いておらず、傷も見当たらない。となりに駆け寄っていた彩華も、カオルの胸を見て同じように不可解な顔をしてい
る。倒れる前、確かに血が飛び散るのを見たし、今、鮫口のナイフに血が付いていたのに。
そこへ、いらだちをはっきりと表した鮫口の声が届いた。
「……テメェ、何のつもりだ」
カオルは鮫口に視線を戻した。未だにぼやけて映る鮫口は、しかし、カオルではなく、あさっての方向をにらんで話をしていた。
「ああぁァ、まさかテメェも殺されてぇのか」
「それは御免だね。おれも、カオルも、殺されたくなんてないさ」
鮫口の視線の方向へ、カオルはゆっくりと振り向いた。
そこに立って、会話をしていたのは正志だった。だが──
カオルはぼう然としてしまった。
敷石にすわったまま青くなったカオルは、かすかに震えている。
赤い血が一滴、敷石の上に落ちた。正志の足もとだ。当然だ。その血は、正志の右手から落ちたのだから。
なんと、正志は右腕から出血しており、逆の手でかばうようにおさえている。
それを見た瞬間、カオルはわかった。先ほどカオルが受けた衝撃は、正志がカオルを突き飛ばしたものだと。鮫口のナイフからカオルを守るために。その結
果、カオルは敷石の上に倒れ、正志は大切な右腕を負傷し血を流しているのだと。
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