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暗闇のカオルと
閉ざされた記憶
第十章 邂逅 5
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二人の真剣なやりとりを見ていた景子が、詩織に言った。
「かなり、危険な副作用のようね。何かもっと上手くできなかったのかしら?」
「カオルは試験型なんです。危険な機能不全を改善する前の段階なんです」
「そう。で、見たところ、薬はカプセルの飲み薬みたいだけど、とっさに水なんて用意できないと思うわよ」
「それは大丈夫です。カプセルの中身はとても甘い粉薬なので、かめばだ液が出てきて、すぐに飲み込めます」
景子の目が鋭く光った。
「そう、甘いの。ブドウ糖をふくんでるのかしら? 意識障害は、神経回路の再組換えとかじゃなくて、低血糖症状、つまり、脳細胞の急激な活動が原因ってこ
とかしら? ……それとも両方?」
カオルにはよく分からないことを聞く景子は、探るような目で詩織のことを見ている。
「そ、それは、お答えできません」
「でも、低血糖症状を、ブドウ糖の経静脈投与じゃなく、経口摂取で即座に改善するなんて、さすが天才と呼ばれるだけはあるわね。どうやって血液中に吸収す
るのかとても興味深いわ。それと、さっき、能力を発現させ過ぎると、生命維持や理性を司る脳が運動を処理するようになるって言ったわね。つまり、あのマ
リーって子みたいになるのかしら?」
「それもお答えできません」
「確か、谷風君は機能不全を改善する前の段階とも言ったわね。と言うことは、機能不全のない完全なものもあるってこと?」
「そ、それもお答えできません」
「あらそう……、それなら──」
「詩織様、青浦たちのその後について、ご報告があります」
取調べを開始した景子から、詩織を守ったのは中久であった。
「主犯の青浦と本江、それに同行していたハイディマリーは、以前逃走中とのことです。ですが、緊急指名手配が決まりましたので、海外への逃走は不可能です
し、つかまるのも時間の問題かと思われます。カオル様を誘拐しようとした黒竜組の組員は、そのほとんどが警察につかまりました。それから、薪負い総合病院
に搬送された地藤正志君ですが、命に別状はありません。意識もはっきりと回復されたそうです」
カオルと彩華は弾けるような笑顔で同時に向き合うと、胸の前でお互いの手を握り合った。その二人の喜び様を見て、奈々美も幸せいっぱいの笑顔を見せる。
「今、中久が説明しました通り、機密をもらそうとした青浦博士たちは、間もなくつかまるそうです。今回の件で、みなさんには本当にご迷惑をおかけ致しまし
た」
詩織は、深々と頭を下げた。
「詩織さん、もう気にしてないから、そんなにかしこまらなくてもいいわ。興味深い話も色々聞けたことだし」
「正志も無事だし、悪人もつかるし、一件落着ね」
「はい。それに、カオル君がお母様に会えました。本当によかったです」
「それなんだけど、カオル、お母さんの顔と名前ぐらいちゃんと覚えておきなさいよ。カオルがちゃんと覚えておかないから、話がややこしくなるのよ」
「そんなこと言ってもしょうがないだろ。小さかったんだから」
「言い訳しないの! 自分の記憶力が足らなかったのを素直に反省しなさい!」
腕を組んだ彩華は、ぷんぷんと怒りながらカオルをしかりつけた。
すると、その様をじっと見ていた詩織が彩華にたずねた。
「あなた、もしかして、彩華ちゃん?」
「えっ? あ、はい、そうですけど、どうしてわたしの名前を?」
「覚えてないかしら? 以前住んでた家に、彩華ちゃん、よく遊びに来てくれたのよ」
「えぇっ? そ、そうなんですか? す、すみません、よく覚えてません。……小さかったので」
彩華は、恥ずかしそうに顔を赤くして下を向いた。
「それにしても、彩華ちゃんはすごくきれいになったわね。幸子さんにとてもよく似てるわ」
それから、詩織は奈々美に視線を移した。
「ごめんなさい。あなたは誰だったかしら」
「月島奈々美と言います。カオル君のお母様とお会いするのは今日が初めてです。ふつつか者ですが、これからよろしくお願いします」
奈々美のあいさつに、詩織は少し首をかしげた。だが、すぐに優しそうな笑顔になった。
「月島奈々美ちゃんね。カオルのことよろしくね」
「はい! おまかせください! わたし、お料理も、お洗濯も、お掃除も得意なんです!」
カオルは、疑問を浮かべたような顔で奈々美に聞いた。
「ん? 何の話してんの?」
「そ、それは……」
奈々美は赤くなって下を向いた。
だが、その行動の意味もカオルにはわからなかったようで、カオルは少し考え出す。それから、合点がいったように手を叩いた。
「わかった! 家政婦のアルバイトか! 奈々美さん、ここで働くことに決めたんでしょ!」
あ然としてしまった女性陣には気づかずに、カオルはうれしそうな顔をした。
痛みをともなうような沈黙が、その場に居合わせた者に容赦なく襲いかかる。
赤い顔でうつむいている奈々美と、能天気なほどうれしそうなカオル以外、みな例外なく凍りついた。忠実な使用人であるはずの中久と二人の家政婦でさえ、
主人の息子へは向けてはいけない視線を向けている。
そして、ついにたえられなくなったのか、彩華が口を開いた。
「カオルがバカだから、わたし、そろそろ帰らないと」
「おい! なんでおれがバカだと彩華が帰らないといけないんだよ。つーか、なんで、おれがバカなんだよ」
「そのくらい自分で考えなさい。考えてもわからないでしょうけど」
ちぇっ、と言って、カオルはほおをふくらませた。
それを見て、くすりと笑った詩織は、正面階段の奥にある大きな柱時計を振り返った。すでに午後の六時を過ぎている。
「少し遅くなってしまったわね。彩華ちゃんの言う通り、今日はこれで終わりにしましょう。中久、みなさんを車で送って差し上げて」
「かしこまりました」
中久は会釈すると、入り口の大きな扉の方へ進み、続いて歩き出した詩織に導かれ、カオルたちもゆっくりと歩きだした。
カオルは、赤いじゅうたんを踏みしめながら思う。
長い一日だったなぁ。いいや、長い数日だったの間違いか。奈々美さんや景子先生と出会ったり、突然鮫口が現れたり、彩華が強化人間探しを言い出したり。
でもって、鮫口や、やくざ者、最後には強化人間と戦うことになるなんてな。そんなこと、数日前のおれに想像できたかな。自分が強化人間だってことや、死ん
だと思ってた母さんに再会することを想像できたかなぁ。できるわけないよなぁ。でもまあ、終わってみると、全てが良い終わり方をしたかな。うん、多分、最
高の終わり方だ。
カオルはふぅーっと、大きく息を吐いて胸をなで下ろす。
そして、中久が開いた扉から、詩織が外へ出た瞬間、カオルは驚きのあまり頭の中が空っぽになった。何が起こったのかよくわからない。今、目の前にある光
景が何なのか、まったく理解できない。
恐らく、彩華も、景子も、奈々美もみな同じ心境だろう。立ち止まってぼう然としている。
開かれた扉から夜の冷たい風が吹き込んできた。
引きつった顔で立ち尽くす詩織は、首もとに当てられた鋭利な金属を恐怖の目で見ている。
「ごぶさたしております、桜川博士。直にお会いするのは、先月の定例会以来ですかねぇ、くくくっ」
低い声で笑ったその男は、詩織の首に後ろから腕を回している。
「おっと、動かないで下さい。命の保証はしませんよ」
中久が近づこうとしたのに対し、その男は、手に持つ金属を詩織の首にさらに近づけておどした。
その金属にカオルは見覚えがあった。今はきれいな銀色の輝きを放っているが、薪負い神社では赤いしずくをしたたらせていた。そう、それは、正志の右腕を
切りつけたバタフライナイフだ。しかし、そのナイフを持っているのは、正志を切りつけた鮫口ではない。
「あ、青浦博士……どうして、ここに……」
詩織の緊張した声を聞いてやっと、カオルはその人物が青浦であると認識した。
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