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暗闇のカオルと
閉ざされた記憶
第十一章 死闘 5
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カオルは拳をゆっくりと下ろした。それから鮫口の方へ歩き出す。
花畑に倒れた鮫口は、かすかに息はあるが完全に意識を失っている。その呼吸さえ、このまま消え入り永遠の眠りについてしまいそうな弱さだ。手負いの人食
い熊が、猟銃で撃たれた様を思わせる。
鮫口のそばまで来たカオルはその横に立った。
そして、獰猛にうなりながら、左手で鮫口の胸ぐらをつかんでつり上げると、かぎ爪状にした右手を大きく後ろに引いた。以前として、激しい殺気が顔にあり
ありと現れていて、鮫口ののどに鋭い憎しみの視線を突き刺している。
きっと、このままのどを切り裂き、とどめを刺すのだろう。相手の命をうばうことで、この戦いに終止符を打つのだろう。みなそう思って見ているのかもしれ
ない。だが、動き出すどころか、声をかける者さえいない。壮絶な戦いに見入ってしまい、完全な傍観者と化したのだろうか。
……コイツガ、ニクイ……コロス……
視界に写る景色以上に真っ暗なカオルの心は、怒りと殺意が激しく吹き荒れていた。ひとみに映る者が誰なのかわからない。でも、無性に憎い。殺したい。荒
れ狂うような思いを今すぐぶつけ完全に破壊したい。ただそれだけだった。
その衝動をおさえる良心はすでにない。
混沌の
闇におおわれ、その影さえ見えはしない。
カオルはゆっくりとその破壊衝動に身をゆだねると、全身を激しく振るわせながら、夜空に向かって強大にほえた。
そして、さらなる眼光の鋭さとともに、殺意の右手で鮫口ののどを切り裂こうとした時、痛々しい少女の声が庭園に響いた。
「カオル、やめて!」
涙の筋が光るほおを振るわせ、そう叫んだのは高嶺彩華だった。
カオルが心底苦しそうに戦うのを、彩華はぬれたひとみで見守ることしかできなかったが、カオルが鮫口の命をうばおうとした瞬間、大きな声を上げていた。
カオルの動きが一瞬止まった。だが、それは一瞬だけであり、さらに凶暴さを増した目で鮫口を貫く。
そのカオルへ向かって、彩華はゆっくりと歩き出した。
「き、危険よ、彩華ちゃん!」
詩織が叫んだ。なんとか自力で庭に出ており、今は中久に支えられながら立っている。
だが、彩華が呼び止めを無視すると、ふたたび大きな声を出す。
「今のカオルに言葉は通じないわ! 行ってはだめ!」
しかし、聞こえているはずの彩華は歩みを止めない。カオルの後ろ姿だけを見つめて白い石畳の上を行く。
「ねえ、カオル。わたしの声、聞こえる?」
優しく語りかける彩華に、カオルの背中がかすかに反応した。
「どんなに嫌いでも、それこそ、本当に殺したいほど嫌いでも、それ以上やってはいけないわ」
カオルはゆっくりと振り返る。カオルの険しい視線が、つり上げている鮫口から彩華へ移る。だが、彩華の歩みは止まらない。河川敷で暴走しそうになったカ
オルを止めたように、ふたたびカオルを止めるつもりなのか、狂犬のようなカオルへさらに近づいていき、なぐさめるように語りかける。
「カオルは頑張ったよ。すごくつらいのに、一生懸命頑張ったよ。だから、その人に傷つけられることなんて、もうないよ。でも、それ以上やったら、今度はカ
オル自身が傷付くから、だからね、カオル、もう終わりにしよう」
言いながらカオルの前まで来た彩華は、やわらかくほほ笑んだ。それから抱きとめるように両手を開いて、ゆっくりと、ゆっくりとカオルに近づく。だが、カ
オルは険しい表情を一切変えずに彩華が近寄るのを見続けると、まるで邪魔な羽虫でも振り払うかのように、無造作に腕を払った。
小さな苦鳴を残して彩華が宙を舞った。
夜風にスカートがはためき、黒髪のポニーテールがさらさらと流れる。
そして、投げ出された体は、誰にも受け止められることなく無情にも石畳の上に落ちると、そのまま動かなくなった。
荒れ果てた天界のような庭に横たわる彩華。
その横で、カオルは払った腕をゆっくりと下ろした。
夜空にまたたく月と星が、横たわった彩華と立ち尽くすカオルを静かに照らす。
しかし、その光には何の力もない。彩華を立ち上がらせることも、カオルをもとに戻すこともない。
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