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暗闇のカオルと 閉ざされた記憶

第十一章 死闘 6

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「彩華……ちゃん……」
 詩織がつぶやくように言葉をもらした。ひとみはカオルと彩華を写したまま一切動かない。突然のことに、無理にでも止めなかったことを、後悔する余裕さえ ないように見える。
 詩織の口から悲痛な叫びが上がった。
「彩華ちゃん!」
 彩華の体がわずかに動いた。
  今の叫びは、けものと化したカオルにも届いているはずだが、カオルの方はまったく反応しない。倒れた彩華をじっと見続けたままだ。何か見覚えがあるのだろ うか。あるいは、今もなおつり上げている鮫口と同様に、彩華をも怒りのままに殺そうというのだろうか。相変わらずの険しい表情からは何も読み取れない。だ が、彩華には何の興味もわかなかったようで、ゆっくりと視線を鮫口に戻すと、ふたたび右手を鋭く構えた。
 ──だめ──
 それは小さな声だった。
 風音にまぎれて消え入りそうなほど小さな声だった。
「……お願い、やめて……」
 苦しさにたえてしぼり出したような声がふたたび上がり、カオルの動きがまたも止まる。
 白い石畳の上に倒れながらも、カオルを見上げる彩華のものだった。
 彩華は石畳に手を突いた。そして、その手に力を込めると、かたかたと震えながら上体を少し持ち上げた。
 立ち上がろうというのだろうか。軽く払い退ける程度とはいえ、カオルの打撃を受けた彩華にできるのだろうか。現に持ち上がりかけた上体は、ふたたび地に 落ち苦しそうな表情を見せる。しかし、彩華はあきらめない。歯を食いしばって苦しさをこらえ、震える両手で体を起こす。片足を地に突き、その足に力を込め る。すりむけ出血したひざがかくかくと震える。ひざだけではない。右腕のひじからも出血し、赤い筋が走っている。その傷付いた体で立ち上がろうと、整った 顔を苦しげにゆがめ、震える全身にムチを打ち、彩華は懸命に努力を続ける。
 立ち上がったところでカオルを止められるとは限らない。だが、わずかな希望に全てをかけるつもりなのか、不可能に近い可能性に全てをかけるつもりなの か、カオルの背中のただ一点を見つめ、体のあちこちを手でおさえながら必死に力を振りしぼり、そして、今、ついに彩華は立ち上がった。
 つらそうな表情を無理やり自然な感じに取りつくろい、彩華は言った。
「その人を殺したら、カオルがつらくなるから……」
 だが、自分の言葉を否定するように静かに首を振る。
「ううん、違うね……わたしがつらくなるんだね」
 背を向けたカオルの方へ、ゆっくりと歩きだした。
「わたしさ、すごく好きだったんだ、カオルと一緒に街を歩くの。ファミレスでお昼食べたり、喫茶店でデザート食べたり、公園でおしゃべりしたり。でも、カ オルがいなくなったら、もうできなくなっちゃう」
 言いながら、カオルのそばまで来た彩華は、カオルの背を優しくだきとめた。カオルは、人を恐れる野性のけもののように、びくりと大きく反応した。だが、 さっきのように、彩華を振り払いはしなかった。
 その背中に、彩華はそっとほお当てて話しかける。
「正志が退院したら、また夕焼け堂でお茶しようよ。その時はさ、奈々美ちゃんも誘って。きっと、すごい楽しいよ。ううん、絶対、絶対楽しいよ。みんなで紅 茶飲んで、ケーキ食べて、それでさ、カオルのをちょっとつまみ食いして。──でも、カオルがその人を殺しちゃったら、もうそんなことできないよ、今までみ たいに楽しくなんてできないよ。そしたら、カオルがつらいだけじゃなく、わたしがつらいから……わたしが一番つらいから……だから、殺さないで……だか ら、もとに戻って……お願いだよ、カオル!」
 彩華は、心の底に眠る思いを打ち明けるように、振るえながら必死に訴えた。
 こんな悲痛な表情を、普段の彩華が見せることは絶対にない。カオルとの何気ない日常を絶対に失いたくないと、とても強く思っているのだろう。
 その思いの強さのためか、カオルの背を抱きしめる腕に力がこもる。
 力いっぱい抱きしめた腕を通して、彩華の振るえがカオルに伝わる。
 心の振るえのような悲しい振るえが。
 寄りそう背中を通して、彩華の温かさがカオルに伝わる。
 心の温かさのような優しい温かさが。
 それがカオルには心地よかった。伝わってくる振るえが、伝わってくる温かさが、カオルにはとても心地よかった。真っ黒い負の感情に支配され、つらさと苦 しさしか感じていなかったが、背中から伝わってくるそれらが、負の感情を少しずつ溶かし、つらさを、苦しさを和らげていく。心にぽかぽかとぬくもりを感じ る。気持ちが落ち着き、気分が良くなっていく。吹雪が襲い来る厳しい寒さの雪山から、春の日差しが降りそそぐ温かい縁側へ移ったかのようだった。
 カオルのことを大切に思う気持ち。
 間違いない。背中から伝わる温かさには、そんな優しい気持ちがいっぱいに込められているのだ。その気持ちがカオルの心を包み込み、たえ難い感情を解き放 ち、とても心地良くしてくれるのだ。
 カオルは、以前にもその心地よさを感じたことがあるような気がした。未だ、けもののような状態で、思考があやふやなので、自分が誰であるのかさえわから ない。だが、そんなカオルの脳裏に一つの映像が少しずつ浮かび上がる。うす暗い雲におおわれた空の下、灰色の高架橋から車の音が聞こえてくる河川敷の草 原。そこに立ち尽くす男子と背中に寄りそう女子。二人とも見覚えがあった。
 コノ男子はダレだ? ……オレか? そうだ、オレだ。名前は思い出せないが、間違いナイ、オレだ。……コノ女子はダレだ? ……思い出せナイ。……ダケ ド、思いださなきゃいけナイ。そんな気がする。……いつもオレのソバにいた気がする。ソレデ、いつもオレのことを心配してクレテ、助けてクレテ、はげまし てクレタ。そんな女子の友達。……ソウカ、今、背中に感じる温かさは、コノ女子だ。今もオレのコトを大切に思って、心配してクレテいる。思いださなきゃ。 コノ子の名前。オレにとって大切な人のはずダカラ。タシカ、名前は……。
 カオルは、つたない思考力で必死に記憶の糸をたどる。すると、その子の普段の姿が見えてくる。
 オレのとなりを歩いてイル。気軽に話かけてキタ。何か冗談を言ってイル。オレをからかい、楽しそうに笑う。つられてオレも楽しそうに笑ってイル。ソウ ダ、コノ子は暗い考えばかりのオレに、いつも楽しさを与えてクレル。ソンナ女子だ。ソノ子がオレのことを気軽に呼ぶ。カオルと。……思い出した、オレはカ オルだ。谷風香だ。ソシテ、オレもソノ子のことを気軽に呼ぶ。
 ──アヤカと──
 カオルの脳裏を閃光が走った。
 そのまばゆさは、頭の中にただよう真っ黒い暗雲を一瞬で消し去り、どこまでも見通せるような、白く透明な思考空間がよみがえる。
 同時に、張りつめていた体中の筋肉から少しずつ力が抜けていく。
 ア、ヤ、カ……アヤカ……そうだ、彩華だ! おれの幼なじみで親友の一人、高嶺彩華だ! 力を暴走させたおれを、彩華が必死に止めようとしてくれたん だ。そのおかげで、おれはもとに戻れた。狂って何もわからない状態から。そのまま命を落とすかもしれない状態から。
 瞬間、その狂ったカオルが彩華を払い退ける光景が脳裏をかすめた。
 心の奥深くまで、激しい痛みがずきりと走った。
 ……なんてことを……おれは、なんてことをしてしまったんだ、おれを助けようとしてくれた彩華に!
 カオルはかたかたと振るえ出した。胸ぐらをつかみ上げていた鮫口がゆっくりと花畑の上に落ちた。膨張していた筋肉がもとに戻り支えきれなくなったのだ が、それだけが原因ではない。今のカオルの腕には一切力がこもっていない。自分が彩華にしてしまったことに、あまりにも強い衝撃を受け、腕から力が完全に 抜けてしまったのだ。

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